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【ラグビー史伝 迫るW杯 彩の国】歴史編(1) マイナー競技、苦難の創成期

 令和元年の今年は、ラグビーワールドカップ(W杯)日本大会が9月に開幕し、熊谷市でも3試合が行われます。今でこそ「西の花園、東の熊谷」といわれるようになりましたが、戦後の埼玉県のラグビーはレベルが低く、マイナースポーツとして扱われていました。創成期から約70年。高校ラグビーを中心に「ノーサイドの軌跡」を紹介します。

 県内のラグビーの事始めは大正11(1922)年、旧制浦和高(現在の埼玉大)の創立に始まります。翌年10月12日のグラウンド開きで、県内で最初のラグビーチームが練習を開始したとされています。

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 しかし、旧制浦和高に続くラグビーチームが県内に設立されることはなく、県内に本格的なラグビーが芽生え始めたのは昭和20年以降のことでした。終戦まもなく、県教育局などを通じて旧制浦和中学(現在の県立浦和高)の体育担当だった黒田清次に指示がありました。

 「明治大学八幡山グラウンドで開催されるラグビー指導者講習会に参加するように」。明治大学ラグビー部監督の北島忠治の指導の下、実技指導を受講してきた黒田は旧制浦和中に戻ってから体育の授業にラグビーを採用。県内でラグビーが本格的に始まるきっかけは、実は体育の授業だったのです。

 黒田は「講習中、『スクラムの強いチームは試合が強い』と言われた北島先生の話は今でも私の頭の中に残っている」と、浦和高校ラグビー部50年史で述懐しています。

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 21年10月、旧制浦和高ラグビー部に所属していたOBたちの勧めもあり、旧制浦和中にラグビー部が発足しました。指導はほとんど旧制浦和高のラグビー部員でした。ちなみに、現在の浦和高ラグビー部のユニホームについてこんな記録が残っています。物資不足の戦後、ユニホームは選手たちが持ち寄った生地を「濃紺」に染めて仕上げたとされ、令和の今も部員たちに伝統の「浦高カラー」が受け継がれています。

 旧制浦和中に続いて翌22年に旧制熊谷中(現在の熊谷高)、旧制本庄中(現在の本庄高)など3校にラグビー部が発足。県内初の旧制中同士の試合は浦和商のグラウンドで旧制浦和中と浦和商が対戦し、旧制浦和中が6-5で勝利しました。23年1月29日のことでした。

 当時、実際に試合をしたのはこの一戦だけだったといわれ、県内にラグビー協会など関連組織もありませんでした。その後に発足する県ラグビーフットボール協会会長を務めた宮田守夫は当時の様子をこう語っています。「終戦後にやっと産声をあげた埼玉のラグビーであったが、埼玉国体開催までの20年以上、マイナー競技として、その実力や施設において陽の目をみることは出来なかった」

 野球やサッカーなどに比べて知名度が圧倒的に低く、肩身の狭い思いをしたラグビー関係者たち。それでも一人の男が県内のラグビー界を盛り上げていくことになります。

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 23年になると、熊谷商工高(現在の熊谷商と熊谷工の分離前)にラグビー部が誕生しました。その立役者は日本体育専門学校(日体大の前身)でFWロックとして活躍した森喜雄。OBら関係者が「ラグビーの神様」と称賛する森の存在なくして「ラグビー王国・埼玉」はあり得なかったといっても過言ではありません。森のラグビーに対する姿勢、その「森イズム」は急速に伝播(でんぱ)していきます。 =敬称略

 (松本博之・ぶぎん地域経済研究所取締役調査事業部長)

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