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【東日本大震災8年】避難後、那須塩原へ 故郷・浪江の姿写真に 管野さん「風化させない」

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 東日本大震災に伴う福島第1原発事故で福島県浪江町の自宅を追われた管野(かんの)千代子さん(72)は月に1度、浪江町に向かい、町の様子を写真に撮り続けている。夫と2人、福島県内で避難生活を送った後、4年前から那須塩原市に住んでいる。原発事故への腹立たしさ、福島・浪江への思いを抱えながら、写真を通して被災地の姿を伝えようと今もファインダーをのぞく。(伊沢利幸)

 ●町の様子が一変

 「震災から8年。町では住宅が次々と解体されている。ぽつんぽつんと家は建っているが、ほとんどが更地で町の様子が一変。復興が進んでいるというが…。浪江は、これからどうなるんだろうと思う」

 浪江町の自宅は福島第1原発から8キロ。「原発が危険な状態。なるべく遠くに避難してください」。震災翌日、町の広報車の呼び掛けを受け、避難を始めた。病院で患者を診ていた医師の夫、寛昭(ひろあき)さん(71)とは数日後に合流。寛昭さんの故郷・相馬市や福島市などで避難生活を続けた。

 千代子さんの趣味はカメラ。震災前から浪江町や隣の飯舘村の人々の暮らしを撮り続けてきた。避難先で飯舘村が全村避難となったことを知り、「もう村を撮ることができない。撮りためた写真を発表したい」と福島市で写真展を開催。川遊びをする子供たちや秋まつり、村民体育大会、炭焼きの仕事…。どの写真も村で暮らす人々の笑顔であふれていた。福島市内の仮設住宅にも通い、避難生活に負けず元気に暮らす村人たちの様子も写真に収めた。写真展は大きな反響を呼び、北海道や関西など全国30カ所で開催された。

 ●何でこんなことに

 那須塩原市で暮らして4年となる。「新天地でお世話になった人たちに感謝を伝えたい」と今年1月に写真展「新天地の人々-浪江から那須塩原市に」を那須野が原ハーモニーホール(大田原市本町)で開催した。那須塩原市で出会った人々の笑顔を収めた写真のほか、これまで撮り続けてきた被災地の写真が並んだ。

 震災後の飯舘村の写真には、昔ながらの茅葺(かやぶ)き屋根の家の前に置かれた除染土を入れた、いくつもの黒いフレコンバッグが写る。

 「この光景は悲しく、むなしい。何でこんなことをしなくてはならないのか」と思い、レンズを向けた。

 「原発事故には言いたいことがありすぎるが、放射能には絶対安全なんてあるはずがない。何より浪江町や飯舘村など多くの人々の生活を奪ったことには今でも腹が立ち、涙がこぼれる」

 那須塩原市への定住を決めているが、原発事故の被害者の一人として「風化させないためにも写真を通して被災地の姿を伝えたい」と訴えている。

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