PR

地方 地方

【平成の文化施設はこうして生まれた】九州国立博物館(4)免震導入

Messenger
九州国立博物館に設置されている免震装置。来館者も見学できる
九州国立博物館に設置されている免震装置。来館者も見学できる

 ■日本書紀で説得 タイとの草の根交流思い結実 

 21世紀に入った平成13年。日本大学文理学部教授の三輪嘉六(かろく)(80)は、逡巡(しゅんじゅん)していた。悩みは、九州国立博物館(九博)の設立準備調査室のトップである主幹に就くかどうかだった。

 誘致活動が実り、福岡県太宰府市への九博建設が決まった。12年5月、文化庁に同調査室が発足した。

 主幹は奈良国立博物館館長の鷲塚泰光(故人)が兼任した。しかし、開館準備が進むにつれ、両立が難しくなった。

 文化庁による後任探しは、難航した。

 背景に国立博物館をめぐる組織改編があった。13年4月、独立行政法人国立博物館が発足し、東京、奈良、京都の3つの国立博物館と、九博の準備室を管轄下に置いた。

 独法化は、橋本龍太郎内閣が「火だるまになってもやる」とぶち上げた行政改革の一環だった。国から自立させ、博物館の努力で「稼ぐ力」を高める狙いだった。

 とはいえ、100年以上の歴史を持つ東京、奈良、京都でさえ赤字を垂れ流している状態だった。ゼロからスタートする九博は、さらに難しいと予想された。

 誰もが尻込みした。文化庁が白羽の矢を立てたのが、三輪だった。

 三輪は昭和39年に奈良国立文化財研究所(奈文研)に入り、44年に文化庁へ移った。平成10年に退官するまで、美術工芸課長や文化財鑑査官を歴任し、九博の検討にも関わった。博物館を新設する先導役として、適任と言えた。

 当の三輪は「柄ではない」と断り続けた。

 日大の仕事に慣れてきた頃だった。文化庁退官後、心筋梗塞(こうそく)を患い、健康面でも自信がなかった。

 半面、九州の盛り上がりは知っていた。

 三輪は、初期の誘致運動を引っ張った元九州歴史資料館副館長、藤井功(故人)と、奈文研の同期だった。大宰府跡の保存や九博誘致にかけた藤井の思いは、痛いほど分かる。人知れず悩み続けた。

 13年の暮れ、三輪が会長を務めていた文化財保存修復学会の会合が、京都であった。そこに突然、文化庁美術工芸課長で、後輩の湯山賢一が訪ねてきた。

 「三輪さんのやりたい方向で構いません。文化庁も分かっています。九博をお願いします」

 三輪は以前から、「来たい人だけ来れば良い」という博物館の閉鎖的な姿勢に疑問を持っていた。

 海外の博物館をみれば、静かに鑑賞する人もいれば、子供の声も聞こえる。

 「広く文化財を見てもらえる博物館を造りたい。やりたいようにやらせてくれるなら、準備だけはやろう」。三輪は決心した。

 「兼任では中途半端になる」。日大を辞め、14年4月、九博の設立準備室室長に就いた。

 「学校より面白く、教科書より分かりやすい。九州が掲げてきた思想や理念は曲げず、そんな博物館を目指そう」

                × × × 

 三輪は、九博に免震装置を導入しようと考えた。

 阪神大震災(平成7年)の経験があった。文化庁美術工芸課長だった三輪は、被災地で「文化財レスキュー」に取り組んだ。

 「ひとたび大地震が起きれば、文化財は相当な被害を受ける」

 九博はこれからできる博物館だ。知名度も信頼もない。展示品を集めるには、貸し手の博物館が安心できる環境が不可欠だった。

 三輪は財務省に掛け合った。担当主計官の反応は、冷ややかだった。

 「九州に地震なんてないでしょう。免震なんていらない」。福岡県を含む九州北部は、地震の少ない地域といわれていた。

 何度訴えても、財務省は首を縦に振らない。

 三輪は、ある日の折衝で日本書紀を持ち込んだ。そこには飛鳥時代の679年、九州北部で発生した大地震が記されていた。

 「筑紫国大地動之。地裂広二丈。長三千余丈、百姓舍屋。毎村多倒壊」(筑紫国で大地震があり、地面が広さ2丈、長さ3千丈あまり裂け、民の住む家が村ごとにたくさん倒壊した)

 「ここにある通り、九州でも大きな地震が起きてるんです」と迫った。

 これが決め手になったかは分からないが、免震装置の導入が決まった。国内の博物館で初めてだった。

 文化財の収蔵庫や展示室部分を支える約450本の柱に、急激な揺れを緩やかにするゴムやダンパーなど、3種類の免震装置が取り付けられた。

 三輪の主張は、杞憂(きゆう)ではなかった。17年3月20日、マグニチュード7・0、最大震度6弱の福岡県西方沖地震が起きた。

 九博がある太宰府も、震度4の揺れを観測した。博物館の揺れは震度2以下に軽減され、被害はなかった。

 「本当に良かった」

 初代館長への就任が決まっていた三輪は、胸をなで下ろした。

                × × × 

 「日本文化の形成をアジア史的観点から捉える」。これが九博の基本コンセプトだ。

 九博は中国大陸や朝鮮半島などの東アジアだけでなく、東南アジアも重視し、関係構築を模索した。候補の一つがタイだった。

 琉球王国も含めた日本とタイの交易は、約600年の歴史を持つ。この歴史を九博で展示する。

 企画課研究員の原田あゆみ(47)=現文化財課長=が、タイとの交渉に当たった。

 原田は大学でタイの古代史や宗教美術を学んだ。平成11年から、同国における美術や考古学研究の最高峰、シラパコン大大学院に留学した。

 留学6年目、大学時代の恩師から、九博が東南アジアを専門とする研究員を募集していると知らされた。「ダメもと」で採用試験を受けたら、合格した。

 30代半ばだった。新しい博物館である九博には、同世代の研究員が多く、若手も大きな仕事を任された。

 原田は単身タイに飛び、バンコク国立博物館と交渉を始めた。

 「タイの文化を紹介したい。長期で文化財をお借りできないでしょうか」

 相手の反応は厳しかった。

 「じゃあ九博側は、私たちに対して何ができるの」

 胸を張って貸し出せるような文化財は、九博にはまだなかった。

 原田は帰国し、上司と相談した。「まず九博のことを知ってもらおう」。タイでセミナーを開催することにした。18年3月、原田は副館長の平中英二らとタイへ向かった。

 九博側は当初、X線CTスキャン装置など、文化財研究に威力を発揮する最新機器の紹介を考えていた。

 セミナー前日、タイ側から、思いもしない言葉を掛けられた。

 「地元住民との関わりや、保存・展示環境の整備などを教えてほしい」

 タイには44の国立博物館が点在し、日本ほど資金や人材も潤沢ではない。地域住民の理解を得た上での文化財保存が、大きな課題だった。

 原田らは急遽(きゅうきょ)セミナー内容を変更した。九博ができる前、大宰府の遺跡を研究者と住民が一緒になって保護する態勢を築いたこと、伝統技術といった無形文化財に関する保護策などを語った。

 タイ各地から約100人の博物館関係者らが集まり、好評を博した。交流の足がかりができた。

 九博とタイ芸術局は19年に交流協定を結び、タイの研究者を日本に招く事業を始めた。

 九博を訪れた研究者は、九博による文化財保護の取り組みや、ボランティアが協力して運営する博物館のあり方を学び、母国に紹介した。九博の「広告塔」となってくれた。

 23年1月、九博初めての海外展「日本とタイ-ふたつの国の巧と美」を、バンコク国立博物館で開いた。

 「今度はタイの文化を、日本で紹介したい」。原田は九博での特別展を企画した。タイ王室を象徴する至宝「ラーマ2世王作の大扉」の貸し出しを願った。 タイにとって門外不出の品であり、反対意見は多かった。

 それでも、タイの博物館関係者の中に、九博の思いは浸透していた。

 「これまで多くの国と事業をしてきたが、九博のようにタイの立場に立っていろいろなことをやってきたところはなかった」

 タイ芸術局長のボウォーンウェート・ルンルチーは、反対を押し切り、貸し出しを許可した。

 29年4月11日、特別展「タイ~仏の国の輝き~」が始まった。150件の名品の中に、「ラーマ2世王作の大扉」もあった。草の根の交流と、原田らの思いが結実した展示だった。 (敬称略)

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ブランドコンテンツ