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【坂東武士の系譜】第4部 激動の時代(8)宇都宮等綱 本拠地2度追われ、波乱の生涯

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関川寺=福島県白河市愛宕町
関川寺=福島県白河市愛宕町

 鎌倉公方が東国の名家として定めた「関東八屋形」の一角、宇都宮氏では応永14(1407)年、12代当主・宇都宮満綱(みつつな)が30代の若さで急死した。武茂(むも)綱家の三男が婿養子となって宇都宮氏を継いだ。宇都宮持綱(もちつな)(1396~1423年)である。上杉禅秀の乱(1416~17年)の鎮圧に功績を挙げ、室町幕府の信頼を得ていたが、鎌倉公方寄りの家臣の離反を招き、一族の塩谷(しおのや)教綱によって暗殺された。背後には鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)の影もある。幕府と鎌倉公方の対立は深刻さを増していた。

 持氏の支持を得た一族の宇都宮家綱が宇都宮家中の実権を握り、持綱の子、等綱は諸国を流浪、篠川(ささがわ)公方・足利満直を頼る。3代鎌倉公方・足利満兼が奥州統治のため、弟・満直を陸奥・篠川(福島県郡山市)に派遣したのが篠川公方だが、禅秀の乱以降は鎌倉公方と対立していた。

 その後、幕府と和睦した持氏にも宇都宮氏当主と認められ、等綱はようやく宇都宮城に復帰した。永享の乱(1438年)、結城合戦(1440~41年)では幕府方として活躍。享徳の乱(1454~82年)が始まった当初は持氏の子、5代鎌倉公方・足利成氏(しげうじ)に従ったが、すぐに幕府の命令で成氏と敵対することになる。鎌倉を追われ、古河公方となった成氏は、激しく等綱を憎み、宇都宮城を猛攻撃。等綱は降参して出家、道景と名乗る。またも宇都宮を離れることになった。

 関東を代表する名門武家として幕府の期待は大きかった。等綱は京で将軍・足利義政と対面。古河公方への対抗策として還俗、奥州に向かったが、宇都宮に戻ることなく、波乱の生涯を終えた。「下野国誌」の宇都宮氏系図は白河・関川寺(かんせんじ)に葬られたとしている。

 ◆宇都宮等綱(うつのみや・ともつな) 1420~60年。宇都宮持綱の子。幼名・藤鶴丸。

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