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【平成の文化施設はこうして生まれた】九州国立博物館(1) 藤井桜 考古学者の魂咲く

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大宰府発掘調査の状況を説明する藤井功氏(左から3人目)=昭和45年5月(九州歴史資料館提供)
大宰府発掘調査の状況を説明する藤井功氏(左から3人目)=昭和45年5月(九州歴史資料館提供)

 平成16年5月9日、福岡県太宰府市の緑豊かな丘陵地に、約350人が集まった。九州国立博物館(九博)の建物完成を祝う式典だった。

 福岡県九博対策室参事の佐々木隆彦(71)は、両腕で遺影を抱え、客席の最前列から式典を見守った。「やっとできましたね」。心の中で故人に語りかけた。

 式典は進み、テープカットに臨む関係者が登壇する。初代太宰府市長を務めた有吉林之助(平成20年死去)も、名を呼ばれた。

 有吉は遺影を目にすると、思わず声を上げた。

 「藤井さんが来とう。藤井さんが来とうぞ」

 有吉の声を聞いた周囲の人はみな、胸を熱くした。「彼がいなかったら、この博物館が実現できたかは、分からない」

 藤井さんとは、昭和60年に53歳で急逝した考古学者、藤井功だ。太宰府の史跡保存に生涯をかけ、消えかけていた国立博物館誘致活動の火を、再び灯した。

 亡くなって20年がたつ。それでも佐々木や有吉ら、関係者や地元住民の心には、ふっくらとした笑顔が焼き付いてた。

                 × × × 

 百年の夢-。地元がそう呼ぶ九博誘致は、挫折の連続だった。

 太宰府天満宮が中心となり、明治26年に「鎮西博物館」を計画した。内務省の許可も出たが、日清戦争によって凍結された。

 同32年、美術史学の大家、岡倉天心が福岡日日新聞(現西日本新聞)の取材と福岡県議会で、「九州博物館」の必要性を説いた。

 岡倉は、急速な西洋化によって、うち捨てられてしまった日本の伝統美術の再興に取り組んでいた。その目から見て、古来交通の要衝であり、多くの美術品や歴史的遺物のある九州に、博物館は欠かせなかった。

 地元も盛り上がり、政財界で誘致の動きを進めた。だが、計画は進まないまま、日本は大戦に突入した。

 戦後の昭和41年、政府は明治維新100周年記念事業として、国立歴史民俗博物館の設置を決めた。

 福岡県は名乗りを上げた。だが45年、千葉県佐倉市との誘致合戦に敗れた。

 自民党副総裁や幹事長を歴任した川島正次郎ら千葉選出の国会議員の政治力が働いたとされる。

 九州の関係者は歯がみし、意気消沈した。それでも藤井だけは、諦めていなかった。

 藤井は昭和6年、山形県酒田市に生まれた。東京教育大(現筑波大)を卒業後、中学・高校の教諭を経て、39年、奈良国立文化財研究所(現奈良文化財研究所、奈文研)に入った。

 奈文研は、平城宮跡の調査・保存をする組織として発足した。わが国の文化財研究の拠点であり、地方の遺跡調査にエキスパートを送り込んでいた。

 藤井は43年、奈文研から福岡県教育委員会に派遣された。同年から始まる大宰府政庁跡の発掘調査で、指揮を執ることになっていた。

 現地で藤井を待っていたのは、怒りの声だった。

                × × × 

 古代、「つくし」と呼ばれた九州は、大陸や朝鮮半島との玄関口だった。

 大和朝廷は7世紀、九州統治と外交の拠点「大宰府」を置いた。防衛拠点である大野城、基肄(きい)城、水城(みずき)なども含めれば、エリアは広大だ。現在の福岡県太宰府市、同県大野城市、そして佐賀県などにまたがる。

 だが、国の史跡指定は大宰府政庁や水城など「点」に限定されていた。大宰府の全容解明には、「面」での調査、史跡指定が不可欠だった。

 文化財保護委員会(現文化庁)は昭和41年、大宰府政庁の周辺約120ヘクタールを史跡に追加する方針を決めた。ほとんどは私有地だった。

 時代は高度成長期だ。開発の波は太宰府にも押し寄せ、地価は急騰していた。

 だが、史跡となれば土地を勝手に売ることはできない。周囲で「土地成金」が誕生するのを、指をくわえてみるほかない。それどころか、家の新築や、木の伐採すら許可が必要となる。

 多くの住民が、史跡指定にも、発掘調査にも反対した。むしろ旗を立てて激しく抵抗した。

 30代の藤井は作業着に地下足袋を履いて、地権者を一軒一軒回った。手には一升瓶を持っていた。

 「文化財は地域の宝だ。ここで育つあなたの子や孫にとっても、誇りであり、宝なんだ。どう守っていくか、一緒に考えよう」

 藤井の熱意、そして豪快でユーモアあふれる語り口に、最初は冷たかった地権者も、徐々にほだされた。

 発掘によって、多くの発見があった。特に、それまでの通説とは異なり、藤原純友の乱(941年)による焼き打ち後にも、建て替えられたことが分かった。朝廷にとって、それほど重要な拠点だった。

 藤井は発掘の合間を縫って、作業員に調査の目的や、出土品が持つ考古学や歴史上の意義を語った。現場に建つトタン屋根の小屋は、さながら「考古学教室」となった。

 作業員には地元から採用された人も多かった。

 故郷の土中から、土器や木簡を見つける興奮。出土品から、1千年以上前に同じ地で生きた人々の営みを想像する楽しみ。作業員は発掘のとりことなり、遺跡保護への理解を深めた。

 この気持ちが、九博ができる下地となった。

 藤井も太宰府のとりこになった。文化庁から戻ってくるよう打診があっても「俺はここに骨を埋める」と断った。

 「大宰府という遺跡と、出土する文化財を理解してもらう拠点が必要だ。発掘の成果をみんなに見せるような場を必ずつくる」。藤井の口癖だった。

                 × × × 

 福岡県は昭和48年、太宰府に九州歴史資料館(九歴)を設置した。将来の国立博物館誘致の核にしようという思いだった。

 53年に文化庁が「国立文化施設整備調査研究会」を設置し、国立文化施設の配置について、調査研究を始めた。

 これを好機ととらえ、地元に「博物館等建設推進九州会議」(九州会議)が55年に発足した。会長には九州電力会長、瓦林潔(故人)が就いた。

 だが、九歴が裏目に出た。「福岡には九歴があるじゃないか。この上、国立博物館はいらないだろう」。陳情に行っても、こう返されるようになった。

 藤井はある時、県教委文化課の後輩、高倉洋彰(75)=西南学院大名誉教授=に「九歴は失敗だった」と漏らした。同じく後輩の佐々木には「九歴だけでは駄目だ。国立博物館を持ってこないといけない。絶対必要なんだ」と、よく言った。

 もちろん、藤井は諦めない。地元の政財界を結びつけ、文化庁に働きかけた。文化庁には奈文研の同期、三輪嘉六(80)=後に九博初代館長=がいた。

 藤井は、各地で九州に国立博物館を置く意義を説いた。その体は徐々に弱っていた。

 60年4月、藤井はバイクに乗っている途中、脳出血で倒れた。病院は、発掘作業を中断して駆けつけた作業着姿の人であふれた。

 藤井はそのまま、帰らぬ人となった。

 その情熱を、下の世代が受け継いだ。

 高倉は、九州会議の機関誌「ミュージアム九州」の編集委員長を約12年間務め、九博の意義を発信し続けた。

 平成8年3月、文化庁が新しい国立博物館を太宰府に建設すると決定した。泉下の藤井は、にっこりしただろう。建設場所は九歴の隣で、九歴は福岡県小郡市に移転する。

 佐々木は15年に県九博対策室へ異動し、開館までの2年間、収蔵品の収集に奔走した。

 九博は17年10月16日、東京、奈良、京都に次ぐ4番目の国立博物館として開館した。

 その敷地の一角に、「藤井桜」と呼ばれる桜がある。かつての九歴の入り口脇に、藤井が植えたものだった。九歴取り壊しの際、桜は伐採されそうになった。佐々木があわてて止め、九博に移植した。

 桜は以来、きれいな花を咲かせる。今年も数カ月後の春を、藤井が愛した太宰府の地で待ちわびている。(敬称略)

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