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明治天皇の東京行幸に反対市民を説得すべし 京都市歴史資料館で大久保利通の知事宛書簡初公開

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 明治2年に事実上の遷都が行われ、天皇・皇后が東京に移るなか、大久保利通が、のちに第2代京都府知事となる槇村正直に宛てた書簡が京都市歴史資料館(上京区)で初めて公開されている。天皇行幸(ぎょうこう)に対して京都市民から起こる反対の声を抑えるように指示した内容。この手紙の存在はこれまで知られていなかったといい、同資料館は「当時の緊張高まる京都の世情をうかがわせた資料」としている。

 この手紙は、祖父が槇村の親類から譲ってもらったという京都市民から寄贈を受けた。縦17・4センチ、横89・3センチ。日付は「六月十日」のみだったが、書かれた時期は天皇の東京行幸を意味する「聖上 東京ニ御安堵(あんど)」などの内容から、明治2年のものとみられる。

 この年は天皇が3月に東京に行幸し、江戸城を皇城とすることが布告された。10月には皇后も東京に行啓(ぎょうけい)。さらに政府も東京に移ったことで京都市民に動揺が広がっていた。

 一方、大阪府と京都府の知事を兼任していた槇村はこの年の4月に京都府の専任となると7月には権大参事(ごんのだいさんじ)に就任し事実上、府政の実権を握った。

 そんな中、大久保から送られてきた手紙には、京都で反対論が起きるならば説得するように指示。さらに天皇が東京で安堵していられるよう、京都市民が仕事に専念できる環境づくりをするように求めている。

 同資料館によると、手紙は筆跡から大久保の真筆ではないが、内容から見て本物を写したか、代筆で書かれた可能性が高いとみている。今回初めて公開した。

 槇村は長州藩で密偵的な性格を持つ密用聞次役や文書や記録を管理する右筆などをこなし、桂小五郎(のちの木戸孝允)や薩摩の大久保らから評価されていた。

 同資料館の担当者は「槇村は京都に着任以後、東京奠都(てんと)で人口減少した京都を近代化政策を次々と行うことで復興させていくが、そんな施策も大久保や木戸が後ろ盾になっていたことを物語る資料といえ、貴重だ」と話している。

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