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【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】下田城開城(下田市鵜島)

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城址碑の上方は主要部に通じ、右側が「あじさい下田公園」に行ける
城址碑の上方は主要部に通じ、右側が「あじさい下田公園」に行ける

 ■陸海から包囲 籠城50日の末

 北条氏は天正18(1590)年2月、豊臣秀吉の小田原征伐に備えて河村城(神奈川県山北町)や足柄城(小山町)、山中城(三島市)、韮山城(伊豆の国市)という天下の険である箱根西山中に前線を配した。さらに豊臣水軍に対して水軍拠点をこれまでの長浜城(沼津市)のほかに、新たに伊豆半島南端に下田城を築き、対決態勢を整えた。その準備は早く、16年の史料には「西国勢於出張者、船動歴然候、依之豆州奥郡之為備、下田之地取立候、此度当城主ニ定置上、…弥上野(清水康英)ニ任置候」と記される。

 まさに強大な豊臣水軍の来襲を看取し、伊豆衆筆頭の清水上野介康英(南伊豆加納郷)に命じて築城した。下田城の守備は清水康英をはじめ弟の清水英吉、小田原から江戸朝忠ら援軍も駆け付けた。伊豆衆では雲見の高橋丹後守(清水氏同心)、妻良(めら)の村田新左衛門、小関加兵衛、子浦の八木和泉守らも入った。ところが、伊豆水軍の将・梶原景宗は「寺曲輪」と船着き場に欠陥があるとして入城を拒否。清水康英との対立が原因で、このため守備兵は600余だったという。

 豊臣水軍は2月、大挙して清水港に集結した。3月上旬には長曽我部元親や九鬼嘉隆、脇坂安治、加藤嘉明のほかに毛利氏の水軍も加わった総勢1万4千余が伊豆の北条水軍基地へ押し寄せた。4月に入り、伊豆西海岸の安良里(あらり)城、田子城など伊豆水軍基地は徳川水軍に攻略された。海上からの下田城攻めは脇坂安治の「脇坂記巻上」に詳しく、「清水より各兵船に取乗。豆州下田に至り。城より七八町東南小山の麓に船を着。各船よりあかりて下田の町を放火し。彼城を取巻。漸大手の木戸口へ押寄せ攻けり」とある。

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