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【坂東武士の系譜】第4部 激動の時代(5)結城氏朝 鎌倉公方の遺児擁立し籠城戦

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森戸果香筆「結城氏朝像」(栃木県立博物館所蔵、提供)
森戸果香筆「結城氏朝像」(栃木県立博物館所蔵、提供)

 享徳の乱(1454~82年)の前哨戦の一つ、結城合戦(1440~41年)で、結城氏朝は、4代鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)の遺児、春王丸と安王丸を結城城(茨城県結城市)に迎えて籠城、室町幕府方の諸将を相手に戦った。持氏は永享の乱(1438年)で室町幕府と対立し、自害しており、氏朝の行動は結局、命取りになる。結城氏断絶の危機を迎えた。

 なぜ、危険を冒し、幕府に反旗を翻したのか。小山市立博物館の佐久間弘行さんは「氏朝は上杉氏と反目していた」とみている。持氏の自害で鎌倉公方は不在となり、関東管領・上杉氏が関東のリーダーとなる。名門意識のある関東武士団には、将軍家・足利氏の一族である鎌倉公方ならまだしも、ナンバー2の上杉氏の台頭には抵抗感があった。結城氏も“抵抗勢力”の代表格だった。

 県立博物館学芸部長の江田郁夫さんは「結城合戦は最初から籠城戦だったのではなく、北関東で反上杉の一斉蜂起があった」と指摘する。桃井(もものい)憲義、岩松持国ら上野(群馬県)の武将も反上杉の動きを見せた。

 江田さんによると、持氏の遺児は日光に隠れ、鎌倉公方御料所のあった中郡荘(茨城県筑西市)で挙兵。結城城に入ると、多くの関東武士が集まった。まず、幕府側武士団の重要拠点とみて祇園城(小山市)を攻めるが、小山持政に追い払われた。逆に結城城は包囲され、8カ月の攻防の末、落城。春王丸と安王丸は護送中、美濃・垂井(岐阜県)で切られた。13歳と11歳だった。結城氏も氏朝と嫡子・持朝は自害。いったん断絶に追い込まれた。

                   

 ◆結城氏朝(ゆうき・うじとも) 1402~41年。小山泰朝の次男。叔父の養子として結城氏を継いだ。下総結城氏11代当主。

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