PR

地方 地方

【平成の観光地はこうして生まれた】門司港レトロ(4) 事業に殉じた建築家「細かい飾りに人は感動する」

Messenger

 平成元年、国の補助を受けて、北九州市の門司港レトロ整備事業は動き出した。事業の成否を決める重要プロジェクトが、門鉄会館(現在の名称は旧門司三井倶楽部)の移築・修復だった。

 大正10年、三井物産が門司支店の社交クラブとして建設した。戦後、国鉄が買い取り、職員の厚生施設に使った。門司港は九州における鉄道網の起点だった。

 山の手にある建物を、門司港駅前のレトロ地区に移築する計画だった。

 移転先は、建築基準法や都市計画法に基づく防火地域で、大きな木造建築物は建てられない。

 ただ、国宝や重要文化財は、適用が除外される。関係者は移築の準備と合わせ、重文の指定を受ける準備を急いだ。

 元年11月、文化財建造物保存技術協会(東京)は、旧門司三井倶楽部設計監理事務所を設け、所長に篠永(しのなが)昌幸(66)を送り込んだ。文化財の修復を手がける若手専門家だった。

 篠永らは早速、図面の作成に取りかかった。

 建物の寸法を計り、スケッチし、材質を調べて記録する。床下で泥だらけになったかと思えば、屋根裏ではハトのふんにまみれた。

 2年3月、無事重文の指定を受け、7月から解体、移築工事が始まった。

 文化財の修復は、創建時の姿に戻すことが原則だ。写真や当時を知る人の証言に加え、解体が大きな手がかりになる。床に打ち付けられた釘(くぎ)に、赤い糸くずが絡まっていたら、赤い絨毯が敷かれていたのではと推測する-。

 大正時代の建物の修復は前例が少なく、手探りだった。時間はどんどん過ぎていった。

 予想を超えたのは、時間だけではなかった。北九州市は工事費を7億円と見積もっていたが、到底、足りそうもない。市側で事業を担当する企画課主査、山方弘美(65)=現八幡西区役所コムシティ管理担当課長=は毎日のように、篠永に詰め寄った。

 「一体、総額はいくらになるんですか? 曖昧な返答では、行政は納得できませんよ!」

 「適当な金額を言って、さらに足りなくなったら、どうするんだ。そんな無責任なことはできない!」

 2人はつかみ合いになりかけた。

 山方も分かってはいた。

 「篠永さんたちは、本気の仕事をしている」

 立場上、予算をいくらでも使ってよいとは言えない。それでも、篠永の要望はできるだけ聞き入れた。

 修復作業でも、篠永は妥協しなかった。

 1階ホールの天井に、ねじ穴が開いていた。往時、シャンデリアがつり下げられていた。

 その豪華な照明器具は失われていた。篠永は復元に、ねじ穴から形を推測し、参考文献を探した。

 膨大な資料を繰る中で、新日鉄枝(えだ)光(みつ)本事務所の設計図に目がとまった。本事務所は門鉄会館と同時代に建てられ、すでに解体されていたが、図面にシャンデリアがあった。

 「これしかない」と身震いした。

 6年12月、予想の2倍以上の時間と、17億円を費やし、「旧門司三井倶楽部」の移築・修復は終了した。

 複数の切り妻造りの屋根と、木の柱やはりを外に見せる独特の様式が、よみがえった。1階イベントホールの高い天井から、シャンデリアがぶら下がり、大正の雰囲気を伝えた。

 篠永と山方は、満足げにうなずいた。

                × × ×

 門司港レトロの整備は長期に及ぶ。文字通り身命をささげた人もいる。

 洋(よう)建築事務所北九州事務所(現・洋建築計画事務所)の所長、城(しろ)水(みず)陽一郎は、その一人だ。

 門司出身の城水は、同志社大で建築を学んだ後、1級建築士として、大阪の洋建築事務所で修行した。

 昭和52年、のれん分けの形で独立し、故郷で北九州事務所を設立した。

 事務を担う妻、悦子(72)=現洋建築計画事務所代表取締役=を含め、総勢5人の小所帯だったが、社名の由来である「前途洋(・)々」の思いだったに違いない。

 門司港レトロは、大好きな故郷の振興に寄与し、同時に設計事務所として名を上げる好機だった。

 城水の元に平成3年9月、商船三井ビル(現在の名称は旧大阪商船)の修復工事が舞い込んできた。

 ビルは大阪商船(現商船三井)が大正6年、門司支店として建てた。修復後は門司港レトロの目玉の一つとなる。

 城水は40代後半。建築士として脂の乗り切った時期だった。

 「あっさりとした改修じゃあ、街にとってメリットなんかない。当時の姿を見てもらうことが大事なんだ」。妻の悦子に張り切ってみせた。

 大学教授らの調査報告書を参考に、修復の設計図をまとめた。完全復元を目指し、屋根や出窓、手すりの装飾まで、細かく描き込んだ。

 予算の壁が立ちはだかった。城水がはじき出した工事費は9億円だった。市の想定の2倍近かった。

 商船三井ビルについて、市は「文化財としての完全復元」ではなく、「レトロ調」の建物で良いと考えていた。

 城水は焦った。このままでは、張りぼての街になってしまう-。腹を決めた。

 事業の司令塔である市企画局長の出口隆(84)=後に助役=に直訴することにした。

 城水と悦子、そして出口の3人は、福岡県立小倉高校の卒業だ。地域の伝統校として、卒業生の結びつきは強い。毎年5月、同窓会の総会がある。

 4年5月、城水と悦子は、総会の会場で出口に歩み寄った。

 「門司港レトロでお世話になっています。お話ししたいことがあるんです」

 城水は「せめて外観だけは、創建当時に戻したい。市の予算通りの工事ではあまりにみすぼらしく、当時の設計者に申し訳が立ちません」と、すがるように訴えた。

 城水の体は、直腸がんに侵されていた。骨にも転移し、腰や足の痛みを常に訴えた。激しい日は、歩くどころか、いすに座ることさえ苦痛だった。

 悦子は告知をしなかった。当時は普通だったし、悦子自身も「うちの人なら治るんじゃないか」と思い込みたかった。

 「座骨神経痛でないかね?」。無理やり、笑顔を作った。

 出口は、城水の病気は知らない。だが、鬼気迫る姿に押され、城水の頼みを受け入れた。高校の後輩という甘さも、多少はあったかもしれない。

                × × ×

 城水は4年8月、入院した。

 容体は悪かったが、情熱は衰えなかった。病室に紙と鉛筆を持ち込み、図面に手を入れ続けた。悦子は毎日、通った。

 仕事を引き継いだ部下の1級建築士、浅田典生(66)=現洋建築計画事務所所長=も、可能な限り、病室を訪ねた。城水の調子が良いときは、指示を仰いだ。

 「現代は『シンプルイズベスト』が幅をきかせている。でも、細かい飾りには、人を感動させる力がある。設計者の意図をしっかりくみ取るんだ」

 だが、はっきりとした言葉は、徐々に聞けなくなった。

 「みんながいるけん、安心だ」

 うわごとのように、繰り返した。

 11月9日、城水は亡くなった。死の直前まで、紙に何かを書いていた。判読できない、小刻みに震えた1本の線だった。

 翌5年3月、城水らの図面を基に、修復工事が始まった。浅田は現場に、毎日出かけた。

 「これでは当時の色を出せません。やり直してください」

 その言葉や要求の高さは、城水がのり移ったようだった。外壁を覆うレンガは、10回以上、焼き直しさせた。施工業者の反発は分かっていたが、脳裏に城水の影がちらつき、「妥協できない」と踏ん張った。

 6年8月、「旧大阪商船」は開館した。27メートルの八角形の塔を、アーチ型の装飾品が囲う。薄いオレンジ色の外壁は、ひときわ美しい。

 洋建築計画事務所は今、隣の郵船ビルに入居する。悦子や浅田は、旧大阪商船の前で写真を撮る観光客を見ると、誇らしくなる。城水も、どこからか見ているような気がする。 (敬称略)

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ブランドコンテンツ