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【今こそ知りたい幕末明治】教育、経済界に足跡 無名な佐賀の軍人

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願正寺にある振風教校跡碑=佐賀市呉服元町
願正寺にある振風教校跡碑=佐賀市呉服元町

 石丸忠英。旧佐賀藩士として明治元年の戊辰戦争に従軍し、明治10年の西南戦争でも政府軍として戦った。その3年後、陸軍歩兵太尉で退役した。決して有名とは言えない人物だが、その足跡は佐賀の教育界に、子孫は神戸の経済界に残った。

 石丸は退役後の明治18年、陸軍士官学校を目指す若者を対象とした進学予備校「干城(かんじょう)校」を設立した。漢字の「干」はもともと、「盾」を意味する。干城は「城の楯」すなわち「武士」「軍人」を指す。

 石丸も従軍した西南戦争の際、熊本鎮台司令長官は谷干城(たてき)であった。

 この干城校は、現在の佐賀市水ヶ江にあった。現在、その地にあるのが佐賀龍谷学園である。

 浄土真宗本願寺派「龍谷高校」の歴史は明治11年に遡る。願正寺(佐賀市呉服元町)内に「振風教校」の名称で、仏教系私学として誕生した。以前書いたが、佐賀の政財界には、浄土真宗本願寺派のネットワークがあった。

 学校は同33年、長崎・佐賀を中心とする「西肥仏教中学」と改称された。その2年後、本山の本願寺で、九州仏教中学設置が計画された。計画では第五仏教中学として佐賀に決定した。

 願正寺にある西肥仏教中学では手狭であり、本格的な学舎が必要となった。そこで浮上したのが、干城校だった。

 干城校は、敷地面積が6千坪(約1万9800平方メートル)もあった。ところが、政府による学制変更の影響を受け、明治30年に廃校となっていた。

 35年5月、この地に第五仏教中学が開設された。41年には本山の山号「龍谷」に由来する龍谷中学へ改称された。言うまでも無く、願正寺の熊谷廣済住職の功績は大きい。

 龍谷中学は昭和23年、龍谷高校となり、現在に至る。

 さらに石丸が設立した干城校は、別の私立伝統校との縁もある。

 干城校の英語教師に、現在の佐賀市久保田町出身の内田常吉郎がいた。

 常吉郎は干城校が廃校となる前年(29年)、佐賀市与賀町に予備校「必習学館」を開設した。明治40年代に、常吉郎が没すると早稲田大学卒の実弟、清一が志を継ぐ。

 柔道教師としても知られる清一は、校主として私学教育に邁進した。そして44年、必習学館の後継として「佐賀実科女学校」を開設する。大正13年に清和高等女学校と改称し、現在の佐賀清和高校に至る。清一は実業家としても名を成し、佐賀市議会にも進出した。

                ■ ■ ■

 さて、干城校創設者の石丸忠英は、神戸岡崎財閥との縁がある。

 旧土佐藩士の岡崎家は、維新後、高級官吏として兵庫に赴任した。その後、実業界に転じ、一族は海運、損害保険、銀行など関西の経済界を動かした。山崎豊子著「華麗なる一族」のモデルとも言われる。

 この財閥の創業初代、岡崎藤吉は、石丸忠英の実弟であった。岡崎家へ婿養子で迎えられたのだった。

 しかも藤吉には嗣子がなかった。そこで兄、忠英の子である忠雄を婿養子としたのだった。忠雄の長男である真一は、妻に本願寺執行長、大谷尊由の娘である高子を迎えた。

 軍人として幕末明治を生きた石丸忠英が、佐賀の教育界に及ぼした影響、彼の一族が財界で果たした役割については、不明な点が多い。深耕(しんこう)すれば、激動の近代史に新たな光を当てることになるだろう。

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