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【自慢させろ! わが高校】熊本県立鹿本高校(下) 「あの1年があるから今がある」

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鹿本高校の同窓会館の正面には、前身にあたる鹿本中、山鹿高等女学校、山鹿高校、旧鹿本高校の校章が残る
鹿本高校の同窓会館の正面には、前身にあたる鹿本中、山鹿高等女学校、山鹿高校、旧鹿本高校の校章が残る

 ■雑巾事件、石拾い…統合成し遂げた1期生

 熊本県立鹿本高校(山鹿市)は、まったく気風の違う伝統校2校が統合して誕生した。当時の教師だけでなく生徒も「われわれがすばらしい学校をつくり、後輩に引き継ごう」と、2校の「融合」を成し遂げた。

 源流の一つ、旧鹿本高校は明治29年、済々黌(せいせいこう)山鹿分校として誕生した。済々黌は熊本最古の高校であり、バンカラで質実剛健。当然、鹿本高校も校風は似ていた。戦前の卒業生には海軍兵学校の合格者も多い。

 もう一つの源である山鹿高校は明治45年、山鹿実科高等女学校として発足した。戦後に共学となった。校内はおおらかな雰囲気だったという。

 九州では、「質実剛健」「おおらか」と、校風が異なる伝統校が、同じ地域に存在し、互いにライバル視するケースがある。

 ところが、熊本県北では、この両校が合併することになった。

 計画が持ち上がったのは、昭和37年だった。徐々に大学進学者が増えていく中で、両校の普通科同士を統合した普通科高校を、別の場所に作ろうという考えだった。

 校名でもめた。

 誰であろうと、母校の名前がなくなるのは寂しいものだ。しかも、両校は伝統校であり、卒業生も多い。

 最終的に、より歴史の長い鹿本高に落ち着いたが、山鹿高側からは、校名存続を願う署名活動も起きた。

 在校生から公募し、昭和42年に決まった校章は、鹿の角が、イチョウの葉を左右から挟み込むデザインだ。角は「Y」のようにも見える。デザインしたのは山鹿高の生徒だった。

 この校章を見て、山鹿高の生徒は「校名は消えたけれど、山鹿の頭文字は残った」と慰め合ったという。

 43年4月、鹿本高校が産声を上げた。旧2校にあった工業科と商業科も合併し、現在の鹿本商工高校となった。

 校舎は一部しかできていない。グラウンドや体育館も、完成していなかった。

 教職員も生徒も、不遇を感じた。それだけに「新たな学校の歴史をつくる」という思いも沸いてきた。

 とはいえ、旧2校の融和の道のりは、決して平坦(へいたん)ではなかった。生徒はささいなことで衝突した。

 通学路にあった貸本屋に立ち寄る旧山鹿の生徒を、旧鹿本の生徒が「へらへら寄り道しやがって」と、にらみつけることもあった。

 ここから、鹿本高校誕生時の3年生で、昭和44年卒業の3人に、当時を振り返ってもらう。

               ■  ■  ■ 

 山鹿市長の中嶋憲正氏(68)は「雑巾事件は忘れられない」と語った。

 本当に、他愛のないことだった。準備するよう言われていた雑巾の集まりが、悪かった。

 雑巾を持ってきた誰かが、持ってこなかった生徒を注意した。どちらかが旧山鹿高出身で、もう一方は旧鹿本高出身だった。

 「生意気だ。何様のつもりだ」「何をっ、用意していないのが悪いんだろう」。つかみ合いのけんかになった。

 やがて仲裁が入り、収まった。周囲の心配をよそに、2人の距離は縮まったという。

 「本気でぶつかりあって、エネルギーを発散したのが良かったのか、今になっても、理由は分からない。それでも、何となくよそよそしかったクラスに、一体感が生まれ始めた。雨降って地固まるでした。今でも、その2人は仲が良いですよ」

 中嶋氏は笑顔で語った。

               ■  ■  ■ 

 竹原英治氏(68)は「グラウンドの石拾いが、生徒に一体感をつくった」と振り返った。

 開校時、グラウンドのいたる所に、石や建材の破片が落ちていた。

 竹原氏ら3年生は、体育の授業を使ってグラウンドの石拾いをした。

 最初は、教師に言われて始めたのかもしれない。毎日のように石を拾う中で、こんな気持ちが芽生えた。

 「自分らは仕方ない。でも、下級生や未来の鹿本生に、こんな思いをさせたくない。後輩のために、裸足でも走れるグラウンドを残そう」

 竹原氏は日本体育大学に入り、教職を目指した。大学4年生の時、教育実習で母校を訪れた。

 小石一つ落ちていないグラウンドを、後輩でもある生徒が駆けていた。

 「俺たちの代が、グラウンドをきれいにした」と言えば、後輩は「おおー」とどよめき、喜んだ。

 竹原氏は熊本で教師となった。定年前の4年間は、校長として母校に赴任した。今も、私立高校の校長を務める。

 熊本銀行頭取の竹下英氏(67)は、社会人になってから、母校での経験を生かした。

 平成18年、取締役を務めていた熊本ファミリー銀行と、福岡銀行の経営統合が持ち上がった。熊本ファミリー銀行は、経営難に陥っていた。

 福銀は全国の地銀でもトップクラスだ。行内では「呑(の)み込まれる」との不安が広がった。

 竹下氏は違った。

 「より良い銀行をつくる大きなチャンスじゃないか。互いの良さを生かす道はある。自分には、その経験がある」。取締役会などで、積極論をぶった。

 その裏付けは、高校時代に、2つの学校が1つになる経験をしていたことだった。熊本ファミリー銀行は、福銀と合併し、後に熊本銀行となった。

 「高校と社会人生活の両方で、当事者として合併に関わった人間は、そうはいません」

 中嶋、竹原、竹下の3氏とも「学校統合のあの1年があるから、今の自分がある」と口をそろえる。

               ■  ■  ■ 

 こうして誕生した鹿本高の卒業生は、さまざまな分野で活躍する。

 その一人に、ロンドンパラリンピック(2012年)のゴールボール女子で金メダルを獲得した浦田理恵氏(41)=平成8年卒=がいる。

 高校時代、吹奏楽部に打ち込んだ。楽器はホルンだった。5年には、近隣の城北高の応援で、甲子園のアルプススタンドで演奏した。

 「とにかく暑く、演奏で精いっぱいだった。それでも『この音が少しでも選手に届け』と全力を出せた」という。

 浦田氏が在学中、卒業生であり、陸上選手として活躍した松野明美氏(50)=昭和62年卒=の講演が学校であった。真っ白なジャージーに身を包んだ松野氏は「小柄だけれど、きらきらと輝く別世界の人」だった。

 卒業後、小学校教師を目指した。だが20歳の時、目の難病「網膜色素変性症」にかかり、失明した。

 落ち込んだ。「こんな自分を知られたくない」と高校はもちろん、故郷の熊本からも遠ざかった。

 リハビリの課程でゴールボールに出合った。目隠しをしながら鈴の入ったボールを転がし、ゴールを競う。

 ハンディと関係なく、自分自身の努力が試される。発奮した。

 2008年の北京パラリンピックは、出場こそしたが、8チーム中7位に終わった。だが4年後のロンドンで、世界一に輝いた。

 ロンドンから帰国後間もなく、鹿本高で講演してほしいと招かれた。母校との縁が再び、結ばれた。

 「努力すれば、私のような人間でも、メダリストになれる。特別な人間でなくても、きっとやれる。夢をもって取り組んでほしい」

 かつて松野氏に「きらきら」を感じた浦田氏は今、後輩にエールを送る。 

(九周総局 中村雅和)

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