PR

地方 地方

【平成の観光地はこうして生まれた】門司港レトロ(1)くたびれたビルに価値がある

Messenger

 ■廃れる街の活性化 官民の思い

 ほのかに赤みがかった外壁が、暗さを帯びた緑色の屋根に映える。北九州市門司区にある門司港駅だ。大きな門のような左右対称の形が、重厚さとモダンさを兼ね備える。

 大正3(1914)年に建築された。第一次世界大戦が始まった年だ。ネオ・ルネサンス様式の木造駅舎は、鉄道駅として初めて、国の重要文化財に指定された。

 平成24年に改修工事が始まり、今月10日、6年ぶりに本駅舎で営業が再開された。来年3月には、全ての工事を終える。平成最後の年に、建設当時の姿がよみがえる。

 門司港駅の周辺には、明治~大正の建物が並ぶ。1世紀前にタイムスリップしたような、レトロで不思議な空間が広がる。だから、このスポットは「門司港レトロ」と呼ばれる。

 「基隆港を船出して ようやく着いたが門司みなと 門司は九州の大都会 一房なんぼのたたき売り さあさあ買(こ)うた~さあ買(こ)うた~」

 道ばたで、門司港発祥「バナナのたたき売り」の軽快な口上が響く。周囲に人だかりができていた。甘い香りは、地域が栄華を極めた頃にも漂っていただろう。

 門司港レトロには現在、年間200万人以上の観光客が訪れる。九州最大のテーマパーク、ハウステンボス(長崎県佐世保市)の288万人にも見劣りしない。

 九州屈指の観光地となった門司港レトロの計画は、30年以上前に始まった。

 「小汚いビルを残して、一体、何になるんだ…」。大正時代の建物に、歴史的な価値を感じる人は少ない。そんな時代だった。

                 × × ×

 昭和62年2月、末吉興一(84)=現アジア成長研究所顧問=が、北九州市長に就任した。

 「鉄の街」として栄えた面影は消え、「鉄冷え」にあえぐ都市だった。

 建設省出身の末吉は、「ルネッサンス(再生)構想」を掲げて初当選した。

 選挙戦では、279もの公約を掲げた。「公約に入れた以上、退路を断って実現を目指す。だからこそハードルの高い政策ほど、公約に入れるべきだ」。末吉はこう考えた。

 そんな279項目の中に、「門司港の文化遺産を生かした街づくり」があった。

 門司港は、関門海峡の最狭部にあり、交通の要衝として栄えた。海路が主流だった時代、九州と本州、そして大陸をつなぐ玄関口だった。

 大正時代には、横浜、神戸を抑え、外国貿易船の出入港数が全国一になった。海運や商社、金融など、国内外の企業が拠点を置いた。

 だが、昭和に入ると、関門海峡を結ぶ鉄道や国道が開通した。空路も発達した。交通の拠点として、門司港の重要度は下がった。古い建物が残る寂れたエリアとなった。

 末吉が初当選した頃、日本はバブル景気に沸いていた。全国を覆う投機的な不動産開発の波が、門司港エリアにも及ぼうとしていた。

 「明治や大正のビルが多く残る門司港の街づくりは、北九州再生の突破口になる。真っ先に何らかの施策を打たないといけない」

 こう考えていた末吉は、危機感でいっぱいだった。

 古い建物が、次々に壊されるかもしれない。といって、全てを市が買い取るような財源はなかった。

 門司港を救ったのは、竹下登内閣だった。

 竹下内閣は「ふるさと創生」を掲げた。その意をくんで、自治省が昭和62年12月、「ふるさとづくり特別対策事業」を創設した。

 地域振興につながるような事業を自治体が提案し、認められれば、費用の半分以上を国が負担する。首長にとって、のどから手が出るほどの好条件だった。

 末吉は官僚時代、自治省に出向した経験もあった。

 「市長になった俺に、古巣からのはなむけだ。使わない手はないぞ。どこの部署でもいい、アイデアを出せ。何としても、事業を持ってくるんだ!」

 庁内に号令をかけた。

 どこの部署でもと言いながら、末吉の腹は、門司港再開発での活用に傾いていた。

 古い建物を生かして、まちづくり事業とする。思い入れの背景には、ある提言書があった。

                 × × ×

 「古い建物だけで、こうも人を呼び込めるのか」

 昭和62年、石蔵康宏(64)は、北海道函館市にいた。目の前には、明治時代にできた和洋折衷の街並みと、大勢の観光客がいた。

 石蔵は、門司駅前でスイミングクラブなどを運営する石蔵興産の専務(現社長)であり、地区の活性化を目指す市民団体「門司まちづくり21世紀の会」(現在はNPO法人)の一員だった。

 門司や門司港から、企業撤退が相次いでいた。地元には、街の衰退に危機感を抱く人もいた。

 その代表格が、高橋油脂工業社長の高橋泰雄(故人)だった。高橋は地元企業のトップや商店主らをまとめて、21世紀の会を設立した。

 高橋は「このまま手をこまねいていたら、間違いなく街は廃れる。何ができるか一緒に考えてくれ」と言って、若手経済人の石蔵を会に引き込んだ。

 会のメンバーは、月に1回集まり、門司の活性化を議論した。

 公民館の和室を借りて、車座で酒を飲みながら、口角泡を飛ばした。

 「古い建物に頼らず、きれいで環境の良い街を作れば人口は増えるよ」

 こんな楽観論に、高橋は猛烈に反論した。普段は温厚な性格が、一変していた。

 「今この瞬間も、古い建物がどんどん壊されている。門司港の良さを一言で言えば、古い建物にならないか? この財産を職場にして、商売に生かし、ここなら儲(もう)かるってことを考えないと、街は栄えないんだ」

 会合に、市長になったばかりの末吉が参加することもあった。まちづくりに、地域の市民が積極的に関わる。それがうれしかった。

 高橋は、21世紀の会のメンバーを引き連れ、北海道の函館や小樽を視察した。古い建物を活用する先行事例だった。

 「ここでできるなら、門司港だってできる。勝るとも劣らないぞ」

 高橋や石蔵らの思いは一致した。

 会はその後も、建築家ら専門家を招いて研究を重ね、昭和62年10月に提言書をまとめた。

 基本方針に「歴史と未来が出合う街」と掲げた。歴史性の高い建築物を活用し、ホテルや会議場、音楽堂を配置し、市民が水に親しめる臨海地区の整備を盛り込んだ。

 門司港レトロにつながる提案だった。

 高橋は、この提言書を末吉に手渡し、何度も念押しした。

 「門司港の活性化は、古い建物を残すことから始まります」

 末吉の思いも同じだった。(敬称略)

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ブランドコンテンツ