PR

地方 地方

【今こそ知りたい幕末明治】小倉藩 「葵」から「菊」へ 守友隆氏

最後の小倉藩主となった小笠原忠忱の写真(北九州市立自然史・歴史博物館所蔵)
Messenger

 慶応3(1867)年6月2日、小倉藩主の小笠原忠幹(ただよし)が豊前国田川郡上野(あがの)村(現福岡県福智町)で亡くなったと発表された。もっとも忠幹は、慶応元年9月6日に小倉城で亡くなっていた。当時、長州再征討が進行中であったため忠幹の死は隠された。長州藩との講和成立に伴い、ようやく公表することができた。

 慶応3年6月25日、忠幹次男の豊千代丸が家督を相続した。最後の小倉藩主小笠原忠忱(ただのぶ)の誕生である。ただし、忠忱は前年8月1日の小倉城自焼の日の朝、細川家を頼り、肥後国熊本藩領に避難していた。熊本滞在は慶応4年3月初めまで続く。

 藩主不在の中、慶応3年7月8日、田川郡金田(かなだ)村(現福智町)の清石山碧巌(へきがん)寺(黄檗(おうばく)宗)で忠幹の葬儀が執り行われた。忠幹はその後、明治17(1884)年5月5日、広寿山福聚寺(現北九州市小倉北区)に改葬された。

 話を幕末に戻す。慶応3年10月13日、京都二条城に小倉藩政務掛の清水勘解由(かげゆ)が呼び出され、幕府が朝廷に政権を返上すること、すなわち大政奉還について考えがあれば申し出るよう命じられた。清水は反対の考えを申し出た。

 だが、15代将軍の徳川慶喜は14日、朝廷に大政奉還を建白し、翌日に認められた。

 朝廷は全国の大名を京都に召集した。豊千代丸(忠忱)も例外ではなかったが、熊本に滞在中のため、家老の小笠原内匠(たくみ)が代理で上京した。

 12月3日、内匠は二条城に登城した。小倉藩は、徳川家から「王制(政)復古」について忌憚のない意見を申し出るよう命じられていた。内匠は、「大政奉還とともに『至明之御英断』で、特に申し上げることはない」と回答した。

 同月9日、朝廷は王政復古の大号令を発した。小倉藩には14日の参(さん)内(だい)が命じられ、内匠と京都留守居の二木武兵衛が参内した。その際に王政復古の内容が伝えられた。その最後に「朝廷、徳川家の間柄に少しも変わったことはない」、つまり朝廷と徳川家の関係は良好であるとあった。

 19日、朝廷からの廻状で、諸大名は「御一新御変革」について下問があるので、速やかに上京するよう命じられた。だが小倉藩は、豊千代丸は幼少かつ病気のため上京できないと回答した。

続きを読む

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ブランドコンテンツ