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【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】戸倉城(清水町下徳倉) 狩野川望む北条軍の橋頭堡

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 天正7(1579)年9月、甲相同盟破綻に伴い、武田、北条両軍は駿豆国境地帯へ進軍した。武田軍は沼津市の三枚橋城、北条軍は清水町の泉頭(いずみかしら)城を最前基地として黄瀬川を挟んで対陣した。北条氏と同盟を結んだ徳川家康は駿河に侵攻し用宗(もちむね)城(静岡市葵区)を落城させ、それに呼応した氏政も三島に向けて出馬した。

 武田勝頼は北条氏と敵対する北関東の佐竹氏らと連携し、北関東各地でも攻防戦を繰り広げた。11月には駿河湾の海上警備のため、長浜城(沼津市)に武田水軍の水軍大将・梶原備前守景宗を入れて強化を図った。

 北条氏政は8年3月、御厨(みくりや)地方(御殿場市と周辺)に侵入し、武田軍の拠点だった深沢城を攻めて周囲の民家を放火して回った。これに対抗するように、勝頼は4月に武田水軍の小浜景隆、向井兵庫助らを伊豆へ侵入させ、迎え撃った伊豆北条水軍と沼津沖で大海戦を展開している。ただ、北関東では武田軍が戦況を有利に進め、真田昌幸による沼田城奪取もあった。

 こうした抗争戦は長期にわたり、9年、遠江の高天神城陥落によって武田軍が弱体化したとみた北条氏は三枚橋城攻めに備えた。ところが、北条氏が重視した戸倉城の在番・笠原新六郎政堯が同年10月、突如、武田氏に内応してしまい、近くの湯川砦と泉頭城でも合戦になった。武田氏滅亡5カ月前のことで、真相は不明である。ただ、これによって10年に入ると武田氏の劣勢は否めず、北条氏が戸倉城を大挙攻め掛けて500余を討ち取り、三枚橋城も自落したという。

 東西600メートルと広大ではあるが、比較的やせた尾根上に構築された戸倉城は、水量が多く蛇行する狩野川を局堀とし、小規模な曲輪が多い。本丸からは北眼下に泉頭城、東・南には山中城と韮山城を望める、北条軍の橋頭堡(きょうとうほ)であった。 (静岡古城研究会会長 水野茂)

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