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【今こそ知りたい幕末明治】同志への供養…血書で般若心経

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 野村望東尼は、慶応元(1865)年11月15日、勤王派を粛正する「乙丑(いっちゅう)の獄」により、玄界灘の孤島・姫島(現・福岡県糸島市)に流された。福岡藩では姫島のほかにも大島、玄界島、小呂島に流人を送っていたが、ほとんどの流人は島の中で自由に生活することを許されていた。ところが幕末になると、重要な政治犯には、流罪のうえ押込めという重い刑が科せられた。望東尼の場合もそうであった。

 望東尼の姫島での生活を知る手がかりは日記である。姫島でも入牢の日から日記を書き続けているので、それに従って獄舎での生活の様子を見てみよう。

 獄舎は、島の最西端の海に面した岡の中腹にあった。そこは一日中、風に吹きさらされる場所であった。屋根は瓦葺(かわらぶ)きだが、建物の周囲は堅固な松の角材で、荒格子が組まれているだけであった。建物の大きさはわずか縦1間半、横2間ばかりで、内部の居室は4畳余りの板敷であった。

 島の役人は、刃物やろうそくなどを取り上げた後、望東尼を獄舎の中に押し込め、外からしっかりと鍵をかけた。望東尼は、この時から一歩も獄舎の外に出ることができなかった。

 入牢の翌朝には、獄舎の小さな窓の前に島人が次々とやって来た。望東尼はあいさつ代わりに半紙、手製の守り袋、菓子、砂糖などを手渡した。

 姫島と望東尼は、縁があった。弟の桑野喜右衛門が、島の初代定番役を務め、5年前に島で亡くなっていたのである。島には喜右衛門に仕えていた者もいて、高価なろうそくなどを小窓から差し入れてくれたりした。

 風雨は着物や風呂敷などで防げても、書くことを生きるよすがとする望東尼にとって、夜の灯りが許されないのは一番つらいことであった。危険を冒して島人が差し入れてくれる炭火や線香の火は、手を温めることはもちろん書き物をするのにも役立ったし、温かい気持ちにもさせてくれた。

 当初は物珍しさに獄舎の小窓に集まって来た島人たちであったが、彼らと言葉を交わすうちに次第に心が通い合うようになり、囚人が実は優れた歌人であるということも知れ渡っていった。

 日々の食事は藩から雇われた3軒の家が持ち回りで世話をしてくれた。

 島人の中には用事で福岡に渡る者がいて、望東尼が書いた手紙や書き溜めた日記の断片を野村家に届け、帰りに返書を貰(もら)ってきてくれた。しかし、家族からの手紙は惜しみながらも水で揉み崩した。家族も含め手紙に名前が出てくる人々にのちのち災いが降りかかってはまずい、という配慮からであった。

 慶応3年5月になって、亡き同志たちの御霊を弔うために萱(かや)で指を傷つけ、般若心経を血書した。生き残ってしまった者としてできる、せめてもの供養であった。処刑された月形洗蔵ら同志たちの遺族に宛てているので、それなりの数を用意したと思われる。現在、福岡市博物館などに遺っているが、経文の文字は血の色が褪せてほとんど茶色になっている。この血書を直に見る者で、望東尼の熱い思いに感動し、その勤王の志が半端なものでなかったと得心しない者はいないであろう。

 日を追うに従って、身体の弱かった望東尼は腰痛にも悩まされ、持病もたびたび起こった。7月になると、熱が下がらず、足もよろめいて、時々島に渡ってくる医師に診てもらったが一向によくなる気配がなかった。ところがある島人に頼んで持ってきてもらった百合根(ゆりね)を食してみたところ、意外にもそれが効いて病が快方に向かった。

 しかし、この様子だと1年や2年ではここから出られそうにもないと感じるようになり、家族に対し、自分はここに長く住む覚悟をしているという旨の手紙を送っている。そのような覚悟がないと、再びやってくる厳寒の季節を乗り越えるだけの気力を保てそうになかったからである。

 入牢から10カ月。この時の望東尼は、まさか海の向こうの長州で高杉晋作が望東尼救出作戦を策していようなどとは想像だにしていなかった。

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