PR

地方 地方

【今こそ知りたい幕末明治】小倉藩の「開国」策

小倉、長州両藩が談判した林算九郎邸の跡。現在「高杉東行終焉之地」の碑が立つ
Messenger

 慶応2(1866)年12月、小倉藩と長州藩の講和談判は難航していた。長州藩が、小倉藩の幼君、小笠原豊千代丸(のち忠忱(ただのぶ))の代わりとして、小倉新田藩主の小笠原貞正を人質として要求したからである。

 藩主の小笠原忠幹(ただよし)亡き後、豊千代丸をもり立ててきたのが貞正である。小倉藩重役たちは、その貞正を差し出すことは到底できなかった。加えて、貞正は分家とはいえ、将軍から直接1万石を宛行(あてが)われた、独立した大名である。

 小倉藩側が出した結論は「開国」策であった。

 ここで言う「開国」とは、小倉藩が自領を全て放棄して、藩士とその家族全員が他国に移住することである。

 一説に、これを提唱したのは小倉藩中老の島村志津摩とされる。「最後ベ(屁)」、すなわちせっぱ詰まり、苦し紛れに考えた策だと言って、長州藩との交渉に当たっていた生駒主税(ちから)に提案したという。

 12月22日未明、生駒は田川郡香春の長州陣所に出向いた。人質要求は受諾できないこと、「開国」することを申し入れた。

 その後、小倉藩の動きは速かった。交渉中の25日には、農村支配のトップである郡代の杉生募(すぎおつのる)から、藩領の大庄屋・庄屋に「開国」決定が通達された。そして、同年暮れから翌年正月にかけて、一部の藩士とその家族は肥後国熊本や豊後国日田に移住した。

 小倉藩の「開国」は、長州藩にとって予想外だったろう。

 12月29日、長州藩側は「山口(藩庁)の論では、小倉藩領である豊前の地を長州藩が残らず『侵掠』(侵略)、『押領(おうりょう)』したと世間で取り沙汰されると、武士道に外れるので、小倉藩と改めて交渉したい」と述べた。

 これは長州藩の、とりわけ藩主の毛利敬親(たかちか)と世子の元徳をはじめ、藩上層部の本心だったと推測できる。

 征長(幕府)軍を撃退したとはいえ、あからさまな侵略行為に走れば、長州藩に対する諸藩や庶民の同情論は消え、声望を失う。もしそうなれば、長州藩は再び、存亡の危機となる-。そう考えたのではないか。

 意図してか意図せずしてか、小倉藩は長州藩の一番痛いところを見事についたのである。その結果、長州藩側は当初の厳しい要求を取り下げ、小倉、長州両藩は、講和に向かって急展開する。

 慶応3年1月16日、馬関(下関)新地の庄屋、林算九郎邸で、両藩の代表者が会談した。ちなみに林邸は、同年4月14日に高杉晋作(東行)が亡くなった場所でもある。

 会談の場で長州藩側は、人質要求を取り下げ、藩主毛利敬親、元徳父子から寛大な取り計らいをするよう命じられたと述べた。

 22日、周防国小郡(現山口市)の御茶屋(おちゃや)で、小倉藩側は生駒主税ら4人と、長州藩側の重役、小田村素太郎(のち楫取素彦(かとりもとひこ))、広沢兵助(真臣(さねおみ))が会談した。

 小倉藩側は「朝廷と幕府の命令を受けてやむを得ず、自領の田野浦まで出陣した。そこに長州藩勢が先制攻撃をかけて今回の戦争が始まった。ところが、幕府軍小倉口総督の小笠原長行(ながみち)が密(ひそ)かに逃亡したため、『公戦』が『私戦之形』となり、小倉藩は田川郡で防戦した」と述べた。

 つまり、今回の戦争は長州藩が一方的に仕掛けたもので、小倉藩が始めた戦争ではないと、堂々と主張したのである。

 長州藩側はこれに返す言葉もなく、「朝廷と幕府が再び出兵を命じたら、小倉藩はどうするか」と尋ねた。

 小倉藩側は「徳川家には御恩があるが、条理が立たないことを命じられたならば諫言(かんげん)し、出兵はしない」と答えた。さらに「今回の戦争で疲弊し、出兵する力がないことはご存じでしょう」と皮肉とも自虐とも取れる返答をした。

 長州藩側は「朝廷や幕府の処置、すなわち長州藩主父子が赦免されるまで企救(きく)郡を預かりたい」と申し出、小倉藩側はそれを了承した。

 長州藩側は「会見内容を山口の藩主父子に報告し、正式な回答をしたい。一日待ってほしい」と述べ、その日の会談は終了した。

 翌23日、小郡御茶屋で、生駒ら小倉藩側4名と、長州藩側の小田村、広沢がそれぞれ連名で作成した覚書を取り交わした。ここに、前年6月から始まった戦争が終結した。くしくも孝明天皇崩御の国喪により、解兵が命じられたのは同日のことであった。

 第2次長州戦争で、小倉藩は幕府に忠誠を尽くしながら、半ば幕府に見放された。けれども最後まで戦い抜き、最後は「開国」という奇策によって、自力で終戦に漕ぎつけた。もっと評価されてよいのではなかろうか。

                   ◇

【プロフィル】守友隆(もりとも・たかし)氏

 昭和56年、山口県柳井市生まれ。九州大文学部卒、同大学院博士課程修了。博士(比較社会文化)。平成23年4月から北九州市立自然史・歴史博物館(いのちのたび博物館)学芸員。昨年秋開催の特別展「最後の戦国武将 小倉藩主 小笠原忠真展」担当。

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ブランドコンテンツ