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【平成のうまいものはこうして生まれた】宮崎牛(2)農家の将来背負った欧州視察

独自配合の餌で立派に育った尾崎牛
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 ■「義足でもやってやる」目標は毎日食べたい肉

 「50万円ほど借りたいのですが…」

 昭和41年春、宮崎県家畜登録協会の技師、黒木法晴(93)は銀行の窓口で、こう切り出した。牛の品種改良を担う育種学の専門家だった。

 「そんな大金、何にお使いになるんですか」

 担当者は聞き返した。サラリーマンの平均年収が、44万円余りだった。

 「牛を見るために、1カ月間、ヨーロッパに行くつもりです。農家の将来がかかっているんです」

 黒木の熱弁に、担当者の顔は引きつった。日本からの海外旅行は、年間10万人程度と極めて珍しかった。しかも、「牛を見る」なんて理由は、聞いたことがなかった。

 「残念ですが、融資はできません」

 黒木の焦りは募った。

 日本では長年、牛はもっぱら農耕用に飼育された。重い荷物を背負い、犂(すき)を引いて田畑を耕す。排泄(はいせつ)物は堆肥となる。農業に欠かせない存在だった。

 明治時代になると、文明開化の象徴として肉食、特に牛肉が脚光を浴びるようになった。日本在来種と、欧州を中心とした外国種との交配が進んだ。

 昭和19年までに、黒毛和種をはじめ、現在「和牛」と呼ばれる4品種のうち、3品種が成立した。

 戦後、日本は高度成長に入る。食の欧米化が急速に進み、牛肉需要が高まった。牛肉は豊かさの象徴だった。

 この和牛ブームに、宮崎県は乗り遅れた。

 宮崎は戦前、軍馬の生産が盛んだった。牛は二の次だった。

 戦後、需要が落ち込んだ馬に代わって、牛の飼育が広まった。それでも、先進県の兵庫や岡山、鳥取には、遠く及ばなかった。

 また、道路事業の悪い宮崎県は、工業化の波にも乗り遅れた。

 県民所得の向上が、宮崎県の大きな課題だった。黒木は、牛に可能性を求めた。

 「牛肉需要はさらに伸びる。日本はもちろん、世界で負けない牛づくりが、宮崎の将来を左右する」

 志を同じくする県の畜産関係者と、連日のように和牛生産の将来を議論した。テーマは、「肉量増加」と「肉質向上」のどちらを優先するか、だった。

 当時、フランス原産の大型牛、シャロレー種が成長の良さから「黄金を背負った銀色の牛」と、もてはやされていた。肉量増加には、この牛種を取り入れるのが良い。一方、「量より質」と、サシ(脂肪)のうま味を高めようという意見も根強かった。

 黒木は、自分の目で欧州の牛飼育を見定めたいと考えた。滞在に100万円はかかる。貯金は、30万円ほどしかなかった。

 銀行から断られ、黒木は諦めかけた。

                 × × ×

 「ブルーバードでも買おうか。ヨーロッパに行くより、そっちの方がましだろう」

 黒木は妻、義子(92)に話しかけた。人気車のブルーバードを買えば、家族も喜ぶだろう。

 義子は答えた。

 「ブルーバードはいつでも乗れます。でも、ヨーロッパには若い時に行かないとだめです。お金は、私が何とかします」

 義子は親類の家畜商、谷口一郎を訪ねた。谷口は黒木夫婦をかわいがっていた。

 「夫に牛の勉強をさせたいんです」

 「良いじゃないか。しっかり勉強すればいい」

 谷口は、牛や馬、豚と何でも取り扱っていた。宮崎の畜産が盛り上がれば、自身の商売にもプラスとなる。即座に50万円を貸してくれた。

 黒木は義子の実家からも借金し、欧州に旅立った。

 英仏両国やスイス、ドイツなど8カ国を巡った。一言で欧州といっても、気候や風土は大きく異なる。宮崎も、海沿いから山間部まで多様な環境がある。少しでもヒントをつかみたい。そんな思いが強かった。

 シャロレー種をはじめ各国の肉牛に触れ、育種家(ブリーダー)と交流した。どの農場を見ても、牛の姿はきれいにそろっていた。数百年単位に及ぶ改良の歴史と、ブリーダーの技量に感服した。

 ただ、味は違った。

 ドーバー海峡を渡る船上、ステーキが昼食に出た。サシが全く入らず、固い赤身で、かみ切るまでにあごが痛くなった。

 「とても日本人の口には合わない。やはり日本人には、サシをはじめ、和牛の優れた部分を伸ばすことが大事だ」。確信した。

 帰国後、和牛の改良に突き進んだ。

 大切なのは、いかに「良い牛」を掛け合わせるかだ。黒木らは、戦前からの研究も参考に、母牛の能力が高い因伯(いんぱく)牛(鳥取)と、肉質が良い但馬(たじま)牛(兵庫)の組み合わせを試みた。

 いくつもの雄牛、雌牛を試し、子牛をつくった。数年後には、「これだ!」という子牛が生まれた。

 黒木らは同時に、牛のデータ化を進めた。さらなる品種改良や、肉質の維持に必要になると考えた。

 毛や皮膚など外見と、肉質や体つきの関係を、徹底的に数値管理した。48年には種牛の精液を一括管理する仕組みを、全国に先駆けて導入した。

 「これで数十年後には、宮崎の肉牛は日本一、いや世界一になる。宮崎が変われば日本が変わる。日本が変われば、世界が変わるんだ!」

 黒木の予言通りだった。欧州視察から40年後の平成19年、和牛のオリンピックと呼ばれる全国和牛能力共進会で、宮崎の牛が最高賞の総理大臣賞を、初めて獲得した。

                 × × ×

 黒木が道筋をつけた和牛改良の流れに乗り、世界に打って出た男もいる。黒木を師匠と仰ぐ肥育農家、尾崎宗春(58)だ。

 尾崎の父も、肥育農家だった。子牛を買い、出荷するまで育てる。

 昭和55年、19歳の尾崎は父に伴われ「牛の勉強をしたい」と黒木を訪ねた。

 黒木は、自身が構想した宮崎産和牛の質を高めるプロジェクトに、邁進(まいしん)していた。その精力的な姿に、尾崎少年は尊敬とあこがれの思いを抱いた。

 「こんな指導者がいるなら、牛飼いに命をかけても良いな」

 尾崎は、黒木に師事した。その後、米国にも留学し、24歳で父の後を継いだ。

 飼育法は、留学で得た知識をベースに、独自に編み出した。特に、米中西部にあるネブラスカ州立大学の経験が生きた。

 そこでは、50頭の牛を預けられ、自由に使って良いと言われた。

 牛の栄養吸収には、胃の中で働く微生物が欠かせない。トウモロコシや大豆、大麦など、餌の種類によって、胃にすみ着く微生物の種類が異なる。これが、肉や脂の質を大きく左右する。

 尾崎は餌の種類を細かく分け、どのような肉が育つかを確かめた。

 120頭を飼育する自身の牧場では、ビールの絞りかすなども試し、理想の肉質を追い求めた。

 「自分で食べて感動しない肉を、お客さんに出しても評価されない。自分が最高だと思う牛、毎日食べたくなる牛肉をつくりたい」

 しかし62年、農機に足を挟まれ、右足の膝から下を失った。

 約2カ月の入院中、不安に押しつぶされそうにった。思い出したのが、米国で世話になった牧場主のことだった。彼も、同じように右足を切断しながら、広大な牧場を管理していた。

 「義足でも、絶対にやれる。やってやるんだ!」

 再起した。それだけでなく、事故のマイナスをプラスに変えた。

 歩くのが遅くなった分、牛のことを、今まで以上にじっくり見るようになった。小さな変化に、敏感に気付く。さらに牛に愛情を注ぎ、精魂込めて世話するようになった。

 結果はついてきた。平成7年ごろから、肉質を競うコンテストで、好成績を出すようになった。

 半面、尾崎は業界内で浮く存在になった。

 農協や行政の基本スタンスは、誰もが一定の肉質をつくり出せるように、標準的な飼育法を確立することだ。その考えと、こだわり抜く尾崎の姿勢に、乖離(かいり)が生じた。

 尾崎は12年、自ら育てた牛を、「尾崎牛」として売るようになった。

 「ルイ・ヴィトンなど世界的なブランドはすべて、生産者の名前がついている。個人の名前で勝負すべきだろう」

 強烈な自負があった。実際、「尾崎の牛がほしい」と、牧場に買い付けにくる客も増えた。売り先は、米・ニューヨークの高級レストランをはじめ、世界に広がった。

 それでも、最高の肉は県内に卸すと決めている。「最高にうまい尾崎牛は、宮崎でしか食べられない」。そう思ってもらえれば、世界中から人を呼べる。そんな青写真を描く。

 黒木と尾崎は、今も頻繁に会い、牛談義に花を咲かせる。話題はいつも一緒だ。どうやって宮崎牛を世界一の牛にするか。そんな2人を見て、黒木の妻の義子は、あきれながらもほほえむ。

 「畜産が潤えば、宮崎が潤い、みんなの仕事と、故郷が守れる」。師弟は大きな使命感を共有する。 (敬称略)

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