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【今こそ知りたい幕末明治】「佐賀の役」の戦後処理

大正5年11月、鳥栖駅から上京する中野致明(手前左)=佐賀市の写真家、大塚清吾氏提供
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 明治7(1874)年2月、政府に対する士族反乱が起こった。「佐賀の乱」「佐賀戦争」とも言われ、江藤新平、島義勇を首領とした江藤征韓党、島憂国党による大規模反乱であった。

 動乱は同年3月の江藤、島の捕縛にて鎮圧された。政府が科した処罰は斬首や士族の身分を剥奪する「除族」と、厳しいものであった。

 この間の経緯、戦記については多くの著書があり、論述を避ける。ただ、佐賀を皮切りとして、西日本で相次ぐ旧士族の反乱で浮き彫りになったのは、士族階級の不満、特に経済的不満であり、その解消は戦後処理として不可欠だった。

 江戸時代、武士の収入は俸禄制度で保たれていた。この制度が、明治維新で崩壊する。旧武士の生活救済を目的に、士族の農商工への転換を推奨する「士族授産」の政策がとられた。

 今も昔も、起業には資金がいる。

 西日本で旧士族の反乱が相次いでいた明治9(1876)年、国立銀行条例が改正された。この後、全国に150を超す国立銀行が設立された。いわゆる「ナンバー銀行」である。旧士族への起業資金貸し付けが、重要な仕事であった。

 この際、旧佐賀藩の関係する3つのナンバー銀行が誕生した。第三十、第百六、そして第百四十三である。

 地元で「佐賀の役」と呼ぶ乱に際して、全ての旧佐賀藩士が江藤らに同調したのではない。

 政府、江藤のどちらにもつかず、旧藩主と同調する「旧家臣群」、そして政府軍についた前山清一郎を首領とした「中立党」があった。

 「旧家臣群」は、旧藩士救済のために動いていた。

 明治4年には、旧鍋島家仕法方(出納)が、銀行類似行為業務を取り扱っていた。業務を担うのは、旧重臣の深川亮蔵、古川源太郎、田中清輔、中野致明らであった。

 この流れに乗って、東京に移った旧藩主、鍋島家が同10年12月、第三十国立銀行を東京府で設立した。深川亮蔵が頭取に就任した。深川は鍋島家(華族)の事務会計を管理し、使用人を監督する「家令」でもあった。

 さらに、地元佐賀では第百六国立銀行が誕生し、明治12年4月に田中清輔が頭取に就任した。田中は、士族授産会社「厚生舎」の初代代表でもある。

 銀行支配人となった石丸源作は後に初代佐賀市長となる。

 また、中野致明は第百六の支配人、取締役、頭取と昇進する。明治期の佐賀経済の羅針盤として佐賀商業会議所や広瀧水力電気などの設立に大きく関わった。

 彼ら旧重臣は、佐賀の役には中立を貫き、その後、銀行業で佐賀の近代化と、旧藩士の救済に大きく貢献した。

 一方、前山清一郎率いる「中立党」は、政府軍に加担したことで、佐賀を離れざるを得なかった。

 佐賀では政府による苛烈な戦後処理に、不満が高まっていた。中立党が佐賀にいれば、新たな火種になりかねなかったからだ。

 中立党は佐賀の役の直後、千葉県印旛郡八街村に集団移転し、開墾授産会社「永沢社」を設立した。そして明治12年6月、第百四十三銀行を設立、前山は頭取に就任した。

 この銀行は翌年、鍋島家が設立した第三十銀行に吸収された。前山は取締役で残った。

 面白いことに、旧重臣の深川亮蔵が明治20年、千葉県知事の申請により、政府から開墾地功績での金杯を授与されている。

 これは、「中立党」の千葉移転と銀行設立、授産事業に深川が関わったからであろう。私は、佐賀の市民感情を憂慮し、移転によってガス抜きを図ったと推測する。

 こうした動きがあった明治6年から同13年まで、大蔵卿は佐賀出身の大隈重信だった。そこにも何かの力を感じる。

 さて、大正5(1916)年に江藤新平、島義勇は維新の功績により復権を果たした。佐賀経済界に重きをなした中野致明が、役職を辞し、鍋島侯爵家の家令として上京したのもこの年だ。中野は翌年、東京にて没す。父で家老であった数馬同様に、主家とそして佐賀に尽くした一生だったといえよう。

                   ◇

【プロフィル】本間雄治氏 

 ほんま・ゆうじ 福岡、佐賀両県の明治大正の実業家の歴史などを研究する。昭和24年生まれ。佐賀大学卒、民間企業を経て平成17年からNPO法人「大川未来塾」(福岡県大川市)で、筑後川水系の活動に従事、18年にNPO法人「みなくるSAGA」(佐賀市)を設立。佐賀市在住。

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