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【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】深沢城の戦い(御殿場市深沢) 信玄、矢文で無血開城迫る

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【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】
深沢城の戦い(御殿場市深沢) 信玄、矢文で無血開城迫る

西の抜川は自然の水堀になっている。私有地のため、広大な城跡の見学には許可が必要になる 西の抜川は自然の水堀になっている。私有地のため、広大な城跡の見学には許可が必要になる

 永禄12(1569)年12月、武田信玄は駿府を再占拠した。このため北条氏の駿河における最前線は駿東郡西端の興国寺城(沼津市)と同郡北端の深沢城が拠点になった。

 信玄は同13年(元亀元年)になっても関東への進軍を繰り返した。5月に入ると、一転、沼津から伊豆韮山城周辺に侵入し攻撃を仕掛けた。8月には再び伊豆に侵攻し、黄瀬川に陣取り、連日のように韮山城、興国寺城を攻めた。房総(千葉県)の里見氏との申し合わせだけでなく、北条氏政をおびき出す戦略だったかもしれない。9月には関東へ侵入し、北関東の沼田城、厩橋城、鉢形城を攻撃。12月に駿河御厨(みくりや)(御殿場市と周辺)へ進軍した。

 信玄の狙いはどうも駿河国の完全制圧にあったのか、元亀2年正月には北条綱成(つなしげ)が立てこもる深沢城を包囲した。信玄は降伏を促す「深沢矢文」を城内に放ち、無血開城を迫ったと伝えられる。北条氏政の書状には「昼夜問わず1カ月に及ぶ攻撃が続き、氏政の後詰(援軍)は深沢城まで5里(20キロ)の地点に布陣してきたが、信玄は甲斐の中山金山の金掘り衆を入れて主要部まで横穴を掘らせたため、後詰を待たずに開城してしまった」とある。

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