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【今こそ知りたい幕末明治】(73)西郷菊次郎と新納家の縁

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【今こそ知りたい幕末明治】
(73)西郷菊次郎と新納家の縁

 NHK大河ドラマ「西郷どん」を時代考証するに当たって、放送前に『西郷家の人びと』(角川書店)を出版した。そこでは、ゆかりの人物113人を紹介した。中でも、西郷隆盛と愛加那(あいかな)との長男、菊次郎と長女の菊草(きくそう)に多くの紙数を割いた。菊次郎の人生は波乱に富んだもので、その功績はさすが隆盛の長男と感嘆させられる。

 菊次郎は幕末の万延2(1861)年1月2日、奄美大島龍郷(たつごう)で誕生した。翌年、妹の菊草が生まれた。2人兄妹である。明治2年、満8歳で鹿児島武村の西郷家に引き取られ、隆盛の3番目の妻・糸の手で養育された。菊草も明治8年までに上鹿し、菊子と名を改めた。当時、西郷家には、糸の実子の寅太郎と午次郎、酉三(ゆうぞう)がいた。糸は愛加那の子供2人をわが子のように養育した。

 菊子は明治13年、大山巌の弟、誠之助と結婚する。巌、誠之助兄弟は、隆盛のいとこにあたる。

 菊子は4人の子供をもうけたが、誠之助が事業に失敗する。明治26年、巌が誠之助の借財整理をした後の夫婦と子供の足跡はよくわかっていない。長男の慶吉と、長女の米子は巌が引き取ったとされている。菊子の世話は菊次郎の妻、久子がみたのではなかろうか。

 久子は菊次郎との間に、生涯で14人の子をもうけた。実は菊次郎は、西南戦争(明治10年)に薩摩軍の一員として出陣。戦傷がもとで、右足を膝下から切断した。

 菊次郎はその後、外務省に入り、台湾の地方長官などを経て、京都市長にも就任する。義足の菊次郎を支え続けたのが久子であった。

 さて、先述の本の上梓(じょうし)後、2つの新しい知見が得られた。

 1つは、菊次郎が京都市長時代のこと。菊次郎は妹の菊子、その次男・網則、次女・冬子を京都の屋敷に呼び寄せて、菊次郎家族と一緒に暮らしたのだが、その屋敷が門跡寺院「聖護院」内の一角であったのだ。

 これは京都の歴史研究家、原田良子氏により明らかになり、先日、NHKのニュースでも流れた。菊子は明治42年9月6日午後11時半に京都で亡くなった。喪主が夫の誠之助ではなく、長男の慶吉が務めたのだが、これも原田氏の研究で、誠之助が行方不明であったからだと判明した。誠之助は、妻の死を知らなかった。

 ただ、菊子は兄の元で、さぞ安心して暮らしただろう。菊次郎の妻、久子の存在も大きかったと考えられる。

 2つ目は、新納時英氏が鹿児島県立図書館館長室へ私を訪ねられ、知られざる史実を教えてくださった。その話によると、昭和38年に亡くなられた御母堂が「私の家は、西郷菊次郎と縁がある」と遺(のこ)されたという。時英氏が調べたところ、結婚間もない菊次郎と久子が、新納家に2人して養子縁組で入っていた。明治27年から約1年4カ月の間、菊次郎と久子は新納家の人間であったのだ。

 新納家は奄美大島の恩人であった。新納久修は、明治18年、奄美の大島郡金久支庁長(島司)であったとき、負債に苦しむ島民の側に立ち、黒糖の流通改革に着手し、大島紬(つむぎ)織物業の振興も図った。奄美出身の菊次郎は、このことを知っていたのであろう。

 また、武村で郷中教育を受けた菊次郎は、久修の先祖で戦国時代の島津家の庶流、新納忠元が郷中教育のおきてである「二才咄格式定目(にせばなしかくしきじょうもく)」の作者であったこともわかっていたはずである。

 ちなみに菊次郎は京都市長を辞めた後、永野金山鉱業館長に就任する。この時代、私費を投じて夜学校を設け、師弟に英語や数学、物理学などを教育した。これは父・隆盛の私学校、幼年学校の志を継いだものであろう。

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【プロフィル】原口泉氏

 はらぐち・いずみ 昭和22年鹿児島市生まれ。東大大学院博士課程単位取得退学後、鹿児島大法文学部人文学科教員。平成10~23年、教授を務めた。23年に志學館大人間関係学部教授に就任、翌年から鹿児島県立図書館長も務める。専門は薩摩藩の歴史。「篤姫」「あさが来た」「西郷(せご)どん」など歴史ドラマの時代考証も手掛ける。