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【平成の高速道路はこうして生まれた】東九州道(2)「地元の熱意署名で届ける」

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【平成の高速道路はこうして生まれた】
東九州道(2)「地元の熱意署名で届ける」

東九州道の早期実現を求める189万人分の署名の出発式=平成17年10月14日、大分県庁前 東九州道の早期実現を求める189万人分の署名の出発式=平成17年10月14日、大分県庁前

 ■聖域なき構造改革の逆風

 「改革なくして成長なし。聖域なき構造改革を断行する!」

 平成13年4月、小泉純一郎(76)が首相に就任した。各種世論調査で、内閣支持率は8割を超えた。「小泉旋風」は、高速道路にとっては大逆風だった。

 「郵政と高速道路が、税金の一番の無駄遣いだ。高速は計画の全てを造る必要はない。不採算路線は切るぞ」

 13年12月、これまで高速道路を整備してきた特殊法人「日本道路公団」の民営化方針が決まった。公団は総額40兆円の借入金を抱えていた。

 小泉は、自民党道路族に「抵抗勢力」の烙印を押し、民営化に突き進んだ。

 さかのぼること10年。3年にバブルが崩壊した。企業業績が低迷し、リストラという名の社員削減、新卒採用の抑制が続いた。

 「コストカット至上主義」が日本を覆う中、行政の無駄遣いへの風当たりが強まる。

 全国の高速道路を一体とみなし、合わせて収支を計算する「料金プール制」が、やり玉に上がった。「田舎の無駄な道路のせいで、首都圏の利用者が高い通行料金を払っている」。そんな主張がテレビや新聞で流れた。

 小泉の改革路線は、喝采を持って迎えられた。

 そればかりではない。

 現在の高速道路網の生みの親は、田中角栄(1918~1993)だ。

 地方のインフラ整備に執念を燃やす角栄は昭和28年、揮発油税を道路整備に充てる法律を議員立法で成立させた。その後も、自動車重量税など道路特定財源を充実させた。

 郵便貯金を原資とする財政投融資を、高速道路建設に充てる仕組みもできた。

 その角栄と激しい権力闘争を繰り広げたのが福田赳夫(1905~1995)であり、福田を師と仰いだのが小泉であった。

 小泉による道路公団民営化の底流には、「角福戦争」の確執もあった。

 ともかく、高速道路建設の見直しが始まった。建設中であっても、凍結があり得た。

 「大変なことになった」。東九州道建設の旗を振ってきた大分県知事、平松守彦(1924~2016)は慌てた。

 東九州道は大分米良インターチェンジ(IC)-大分宮河内ICなどは開通していたが、未着工区間も多い。開通区間は、全体の20%にも満たなかった。

 「こま切れ高速道路」で終わる可能性もあった。

                 × × ×

 政府・与党は平成14年12月、高速道路建設に関して「新直轄方式」を打ち出した。

 採算性が低い道路でも、政策的に必要と認められれば、国が4分の3、地方が4分の1を負担し、建設する手法だった。

 自治体は、建設費を負担してでも高速道路を求めるかどうか、選択を迫られた。

 「まず産業の発展があって、道路があると思っていたが、違う。企業誘致するにも、ちゃんとした道路がないと何もできない」

 15年4月に大分県知事に就任した広瀬勝貞(76)は、新直轄方式による東九州道建設を目指した。

 ただ、新直轄方式でも競争相手は多い。

 「なにも新幹線を通せとは言わない。せめて道路くらいは一人前のものを造ってほしい。大分や宮崎の私たちを、やる気を起こせるような土俵に、上げてください」

 大分県東京事務所次長の妹尾忠幸(69)=後に県高速道対策局長=は、国土交通省や財務省に、陳情を繰り返した。

 「マスコミで高速道路は無駄だといわれるが、冗談じゃない。取り残されちゃかなわない」。妹尾は連日、霞が関を歩き回った。

 そんな妹尾を、知事の広瀬はこう言って鼓舞した。

 「妹尾君、行政マンはいつも県民が幸せになるかを考えないといけない。大分が力を発揮するには結局、高速道路しかないよね」

 自治体の声だけでは弱い。「大分の声よ、中央に届け」。地元や都内で、東九州道建設促進大会を開いた。

 「高速ができなければ、生活が困るんです」「道路は私たちの生命線です」。農林水産業者や女性の会のメンバーが、国交省幹部らに訴えた。

 「国も、東九州道を造るべきだと分かっている」。妹尾は、国交省幹部から好感触を得た。

 15年12月25日、国会議員や有識者による「国土開発幹線自動車道建設会議」(国幹会議)の第1回会合がホテルオークラ東京で、開かれた。新直轄方式の対象区間を選ぶことも議題だった。

 1時間半の議論の結果、全国70区間のうち、27区間を新直轄方式に切り替えることが決まった。

 東九州道の蒲江町(大分)-北川町(宮崎)など4区間も含まれていた。妹尾は報告を受け、胸をなで下ろした。

 ただ、国も自治体も財源には限りがある。東九州道では宮崎県内の工事が先行し、大分県南部や福岡県内は、じりじりと遅れた。

                 × × ×

 平成17年6月、大分県別府市の土産物販売業「宝物産」の常務、河越祐人(52)=現社長=は、東九州道の早期実現を求める署名運動を始めた。河越は日本青年会議所(JC)九州地区協議会の会長でもあった。

 同年10月、道路公団の民営化が迫っていた。どの道路から造るか、選別が厳しくなると予想された。

 「東九州道の遅れが、九州全体の都市間連携が不足する最大要因だ。地元の熱意を伝えるには、署名に勝るものはない。九州全体で東九州道を待ち望んでいる証を示そう」

 河越らは100万人を目標に、署名簿を持って九州中を走った。

 反応は鈍かった。あるとき、河越は大分銀行会長の高橋靖周に呼ばれた。

 「署名が集まらないらしいな。何をやっているんだ。今回がラストチャンスだ。経済界も目いっぱい応援する。君らも頑張れ」。はっぱをかけられた。

 大分県知事の広瀬からは「100万人を達成しないと、いつまでも東九州道が通らないことになりかねない。河越さん、頼んだよ」と言われた。

 河越らは、より熱心に取り組んだ。

 東九州道の通らない佐賀や長崎のJC理事長も訪ねた。離島にも足を運んだ。

 「道路を造るのだけが目的ではありません。高速道路網によって、自立した経済圏となるよう九州を底上げするのが目標です。九州を循環できれば、ヒト、モノ、文化の新たな流れができる。東九州道は恵みのインフラとなるんです」。河越は丁寧に説明した。

 「河越さんの話、よく理解できました。ぜひ、協力しましょう」

 署名の輪は広がった。

 用紙の予算が足りなくなった。九州・山口経済連合会(九州経済連合会)会長の鎌田迪貞(みちさだ)が、河越に声をかけた。

 「協力するよ。用紙はこっちで作ってやる」

 10月までに189万人分の署名が集まった。九州7県の全人口の15%にも相当した。

 河越は、語呂合わせで「いち早く」と読んだ。「いち早く高速道路をとの思いを、国に伝え、動かそう」

 「公共事業に冷たい風が吹き荒れるこんな時に、これだけ集まるとは…」。知事の広瀬は、うれし涙を何とかこらえた。

 署名はトラックで国交省に送られた。道路局長室に「189万人の署名、東九州道」と書かれた紙が貼られた。九州の熱意を、全国の競争相手に示した。

 18年2月の国幹会議で、佐伯-蒲江間の整備が決まった。大分県内分の全線開通が約束された。

 民営化で誕生した西日本高速道路(ネクスコ西日本)も、地元の熱意に応えた。同年6月、中津工事事務所の所長、浜田兼栄(かねひで)(65)(現・西日本高速道路メンテナンス九州工務営業本部長)は、広瀬に事務所の看板の揮毫(きごう)を依頼した。

 広瀬は3カ月間、ひそかに習字の手ほどきを受けた。東九州道への思いを込めて、一文字一文字、筆を動かした。

 広瀬は、早期開通を求めてこう言った。「浜田さん、看板の賞味期限は9年だ。9年間で頼むよ」

 浜田は担当する豊前IC-宇佐IC間の工事を、9年以内に終えた。

 その他の地域でも、工事は進んだ。28年4月24日、福岡の椎田南-豊前間(7・2キロ)が開通した。

 北九州市から、大分を経て、宮崎市までの約320キロが、高速道路でつながった。 (敬称略)

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