PR

地方 地方

【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】滝山城(東京都八王子市) 北条氏照、武田軍の猛攻防ぐ

滝山城外郭を防備する巨大な横堀は圧巻。広大な城域は散策路として整備され、見学しやすい
Messenger

 武田信玄は永禄12(1569)年正月からの小田原北条氏との薩捶(さった)山の戦いで、上杉、北条両氏による信玄封じ込め戦略の「越相同盟」で窮境に陥り、何とか4月に甲斐へ撤退した。ただ、その鬱憤を晴らすかのように、信玄は5月に関東へ出馬し、武蔵における北条氏拠点の北条氏照の滝山城と伊豆国の三島方面へ侵入した。

 6月には大宮城(富士宮市)を攻め、御厨(みくりや)地方(御殿場市など)に進んで布陣した。7月は三島を焼き払い、韮山城近くの北条(伊豆の国市)で北条軍を撃ち破った。8月に入ると、信濃の碓氷峠を越えて西上野(群馬県)に侵攻し、北条氏邦が城主の鉢形城を攻め、南下して再度、武田勝頼を大将に滝山城の総攻撃を命じた。その攻撃はすさまじく、江戸期の軍記物には二の丸が陥落し、本丸のみを残して落城寸前まで追い詰めたことが記されている。

 しかし、先学の研究によると実態は違うようだ。氏照は城下3カ所の入り口に軍勢を配し、武田軍の来襲に備え、2日間にわたる激しい攻防戦を展開した。どうも城へ攻め入ることができず、3日目の夜半に武田軍は北条氏本拠の小田原城へ向け陣払いをしたという。信玄にしてみれば、最大の標的は小田原城攻めで、堅固な滝山城の力攻めによる軍勢の消耗を避けたのが実態のようだ。

 滝山城創建は関東管領・山内上杉氏の有力家臣、大石氏によるもので、同氏は北条氏康の子、氏照を婿養子に迎え家督を譲った。氏照は天正10(1582)年頃から豊臣秀吉との戦闘を想定して滝山城を放棄し、極めて戦闘的な山城の八王子城へ移る。

 滝山城は東西、南北1000メートルに及ぶ広大な丘城で、巨大な横堀に囲まれた曲輪群と入り口前の馬出しなど健全に保存され、北条系の典型例として楽しめる。(静岡古城研究会会長 水野茂)

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ブランドコンテンツ