産経ニュース

【今こそ知りたい幕末明治】(71)守友隆氏 小倉と長州の講和談判

地方 地方

記事詳細

更新

【今こそ知りたい幕末明治】
(71)守友隆氏 小倉と長州の講和談判

旧香春藩庁門(香春町指定文化財) 旧香春藩庁門(香春町指定文化財)

 慶応2(1866)年8月1日の小倉城自焼から続いた小倉藩と長州藩の「私戦」は、10月21日にようやく止戦となった。

 止戦協定には、「小倉、長州両藩が互いにみだりに金辺(きべ)峠、狸山峠を越えて他領に踏み込まない」という条項があった。だが、翌年1月23日の完全な講和、終戦まで、さらなる交渉が続いた。

 講和に向けた談判(交渉)で小倉藩にとって難題だったのは、長州藩側の人質要求であった。その対象が小倉藩の世子(せいし)(跡継ぎ)、小笠原豊千代丸(のち忠忱(ただのぶ))だったからである。

 数え年で5歳の豊千代丸は対外的には「世子」だが、実際は「当君(とうくん)」、すなわち当主であった。なぜなら、前年の9月6日、父で藩主の小笠原忠幹(ただよし)が亡くなっていたからである。長州藩との開戦が迫っていたことから、忠幹の死は隠され、病気療養中ということにされていた。

 つまり、豊千代丸を人質に出せというのは、藩主を人質として要求されているに等しく、小倉藩としては到底受け入れられるものではなかった。

 途方に暮れた小倉藩側は、11月29日の下関における交渉で、忠幹がすでに亡くなっていることを、それとなく伝えた。

 長州藩側はそれを知っても、要求を撤回しようとはしなかった。というのも、忠幹の死はすでに一部では知れ渡っていた。長州藩側は当初から承知の上で、無理難題をふっかけたとも考えられる。

 小倉藩は「難題であるので、12月2日までの返答期限を12月18日まで延期してほしい」と申し出、受け入れられた。

 ただ、長州藩側は期限延長に条件を付けた。

 「軍隊を小倉藩領の香春(かわら)に入れさせてもらいたい」というものだった。

 理由として「小倉藩側がなかなか回答しないので、幕府の援軍を待つ引き延ばし策だという疑念が、兵士たちに生じており、それを解消させるためのものだ」と説明した。

 これは、長州諸隊幹部の偽らざる本音であったとも、小倉藩領に軍隊を進駐させようとするでっちあげとも考えられる。いずれにせよ、講和談判が決裂した場合に備えての作戦であったことは確かだろう。

 小倉藩側は「農民、婦女子の動揺が懸念されるので、兵士を率いて来ることはやめてほしい」として、長州藩側の隊長2、3人だけが香春に入って様子を見ることは認めた。

 ところが、隊長が兵士を率いて領内侵犯した。

 12月3日、長州勢の2中隊が金辺峠を越えて田川郡採銅所、香春(現福岡県香春町)に進んだ。さらに3小隊が狸山峠を越えて京都郡行事(みやこぎょうじ)、仲津郡大橋(現行橋市)に入った。

 この小倉藩領への軍隊派遣について、長州奇兵隊の日記「豊前地戦争一件日記」には「敵地巡見」と記されている。小倉藩側に対する厳しいまなざしがうかがい知れる。

 当然、小倉藩側は抗議した。

 長州藩側は「これは馬関惣奉行(そうぶぎょう)の命令であり、上位者からの命令を実行しないわけにはいかない」と回答した。

 結果として長州藩側は、10月21日の止戦協定を一方的に破った。

 小倉藩側にとっては、要害の地である金辺峠、狸山峠を越えられ、仮藩庁のある香春にまで長州藩の軍隊に進入されてしまったのだ。行く末は風前の灯のようであった。

 だがこの直後、小倉藩は思いもよらない奇策でこの難局を乗り越え、終戦を迎えることとなる。

                   ◇

【プロフィル】もりとも・たかし

 昭和56年、山口県柳井市生まれ。九州大文学部卒、同大学院博士課程修了。博士(比較社会文化)。平成23年4月から北九州市立自然史・歴史博物館(いのちのたび博物館)学芸員。昨年秋開催の特別展「最後の戦国武将 小倉藩主 小笠原忠真展」担当。