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【平成の高速道路はこうして生まれた】東九州道(1)列島改造ブームが追い風

関係者が工事の安全を祈った東九州道津久見ー佐伯間の起工式=平成13年10月
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 ■「豊かな国づくりには道が必要だ」

 「東九州道は大分の県南地方に光を当て、産業発展の大きな弾みになる。今後、大分は飛躍的に発展する。私はそう確信しています」

 平成13年12月27日、大分県南部の津久見市。知事の平松守彦(1924~2016)は、関係者350人を前に、朗らかに語った。この日、大分市内から津久見インターチェンジ(IC)までの21キロが、高速道路でつながった。

 大分市から津久見までの移動時間は、これまでより20分短い40分となった。

 平松は知事室に戻ると、九州の地図を眺めた。大分と津久見の間に赤いテープを貼り、一人つぶやいた。

 「東九州で豊かな国づくりを進めるには、道路整備こそが必要だ。次は津久見から県境の蒲江までだ」

 通商産業省出身の平松は、アイデアマンだった。

 官僚時代から臨海工業地帯構想を大分県に提案し、昭和54年に知事に就任すると、「一村一品運動」を打ち出した。

 全国的にみて、大分の知名度は低かった。別府温泉が知られる程度だった。県名が正しく読んでもらえず、「ダイブンケン」と言われることもあった。屈辱だった。

 だからこそ、特産品を作って全国に売りだそうと考えた。

 平松の政治哲学は明瞭だった。

 国は防衛や外交など、国にしかできないことをやり、産業振興や教育充実は地方が責任を持って取り組む。力強く自立した「地方」を理想とした。

 「大分県でも、各自治体が独自性を持ち、伸びるべきだ」。そう主張した。

 ただ、各自治体が伸びるには、条件を整備しなければならない。社会基盤、インフラだ。

 第一が道路だった。大分県は、山が海岸線まで迫る。その険しい地形から、トンネル数は全国の都道府県で最多となっている。

 特産品を作り、全国に売るには、交通ネットワークの構築が必要だった。

 何も大分のことだけを考えたのではない。

 後に12年間にわたって九州地方知事会の会長を務めた平松は、九州全体を俯瞰(ふかん)して物事を考えた。

 九州の大動脈はまず、福岡、熊本、鹿児島をつなぐ九州道が整備された。これは縦貫道と呼ばれた。次に大分から佐賀・鳥栖を経由して長崎へ向かう大分道、長崎道の開通が進んだ。こちらは横断道と呼ばれる。

 だが、北九州から東回りで鹿児島へとつながる地帯は、高速道路の空白地帯だった。

 「九州が一つの経済圏となるには、高速道路が九州全体で循環する形にならないといけない」

 平松は折に触れて、訴えた。

                 × × ×

 東九州道は、北九州を起点に、大分、宮崎を経由して鹿児島までの436キロを結ぶ。

 構想は昭和40年代に、持ち上がった。

 40年に名神道、44年に東名道が全線開通した。日本における高速道路時代が幕を開けた。

 47年、田中角栄が「列島改造論」を公表した。工業地帯の再配置や、交通・情報通信ネットワークの整備によって、地方を再び輝かせるという構想だった。

 列島改造ブームが起きた。

 この流れに乗って、大分、宮崎など東九州地域の首長や財界関係者は、東九州道の陳情を重ねた。

 衆院議員、衛藤征士郎(77)=大分2区=も、構想実現へ旗を振った。

 朝鮮半島で生まれ、終戦で日本に引き揚げた。昭和46年、20代で大分・玖珠町長に初当選した。

 「税金を確保し、うまく配分する。税こそ政治だ」。町長としての活動を通じて学んだ。

 同時に、地元の発展には道路が欠かせないと考え、大分道の玖珠ICの誘致に、汗を流した。

 昭和52年の国政転身後は、東九州道実現を、政治家としてのテーマの1つに据えた。

 「東九州道は、私の夢なんです」

 衛藤は、自民党重鎮の渡辺美智雄(1923~95)に働きかけた。渡辺は農林水産相や蔵相を歴任し、62年に党政調会長になっていた。

 「分かった。おれが党をやるから、衛藤君は建設省を口説け」。渡辺はそう語った。

 62年6月、東九州の熱意が形となった。閣議決定された第4次全国総合開発計画(四全総)に「東九州道」の文字が明記された。同年9月、高速道路として整備される「予定路線」になった。

                 × × ×

 ただ、安心はできなかった。

 四全総に基づいて策定された「高規格幹線道路網整備計画」は、全国に高速道路と自動車専用道路を計1万4千キロ張り巡らせるプランだった。

 予算には限りがある。建設が後回しにされれば、実現はいつになるか分からない。

 沿線自治体は動いた。

 渡辺の口添えがあったのか、62年の冬、運輸相だった石原慎太郎と、建設相の越智伊平がそろって大分入りした。知事の平松は2人に早期着工を働きかけた。

 衛藤の後援会も必死だった。平成元年11月、大分県佐伯市に建設相の原田昇左右を招くと、2千人を集めて、東九州道実現を訴えた。

 高速道路は、基本計画、整備計画を経て建設区間やルートなど詳細が決まる。国会議員や有識者でつくる国土開発幹線自動車道建設審議会(国幹審)が審議する。

 その後、建設相の施行命令が出て初めて、工事に着手する。建設は日本道路公団が担う。

 東九州道のうち大分県内分では平成元年1月、大分市-佐伯市(40キロ)の基本計画がまとまった。

 3年、大分市-津久見市(27キロ)が、整備計画区間に格上げされた。

 そして7年3月、大分宮河内IC-大分米良(めら)IC(6・2キロ)で、ついに工事が始まった。同区間は11年11月27日に開通し、13年には津久見市まで伸びた。

 「これで九州を循環する高速道路網ができる」。平松は夢を膨らませた。

 その夢に、冷や水を浴びせる出来事が起きた。「小泉劇場」だった。 (敬称略)

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