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【維新伝心150年 士族反乱の地を行く】(4)西南戦争(下)(明治10年)

日奈久温泉街近くの港に面した場所に建つ「官軍上陸之地」の石碑=熊本県八代市
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 ■自由民権運動家、最期の地

 西南戦争で熊本城を包囲する薩摩軍に、政府軍(官軍)は北と南の両面から兵を進めた。北の田原坂、そして南の八代で激戦が繰り広げられた。八代方面の戦いでは、薩摩士族だけでなく、熊本出身の若き自由民権運動家も命を落とした。

 明治10(1877)年3月19日、長崎から船で運ばれた官軍が、八代南部の日奈久(ひなぐ)沿岸に上陸する。鹿児島から熊本への補給路を断ち、薩摩軍の背後を衝(つ)くという意味で「衝背(しょうはい)軍」と呼ばれた。

 八代海(不知火海)に面した日奈久は、温泉の街だ。江戸時代には細川藩の藩営温泉場があった。

 「温泉はよい、ほんたうによい、ここは山もよし海もよし」。放浪の俳人、種田山頭火は『行乞(ぎょうこつ)記』で、こう絶賛した。

 街の中心部には鹿児島と熊本をつなぐ薩摩街道が通る。北上すると八代、宇土、河(川)尻を通り、熊本城下に着く。まさに官軍が狙ったルートだった。

 日奈久温泉観光案内所の近くの海岸沿いに「西南戦争官軍上陸之地」と刻まれた碑が立つ。ただ、実際に官軍が上陸したのは、もう少し南の洲口(すぐち)だった。

 上陸した第一陣は数百人。援護射撃で軍艦から数発の砲弾が撃ち込まれた。

 一方、薩摩軍は日奈久に食糧基地を置いていた。だが、熊本城包囲作戦と激戦地、田原坂の防御に手いっぱいで、この地にはわずかな手勢しかいなかった。

 「当時、薩摩街道のすぐ近くまで海だった。ちょうど西南戦争の年に旅館『八代屋』が営業を始めたが、新築されたばかりの建物のすぐそばで銃撃戦があった。2階の柱には弾痕が残っているそうですよ」

 日奈久温泉観光案内所の山下美佳氏(49)はそう教えてくれた。いまは旅館は廃業し、個人宅になっている。

 日奈久を制圧した官軍は八代に向かう。薩摩軍は「衝背軍」のさらに背後を突こうと、鹿児島からの増援部隊を動かした。八代での戦いは拡大する。

 広く信仰を集めた八代神社も両軍が相まみえた。九州三大祭の1つで、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産にも登録された「八代妙見祭」で知られる神社だ。

 宮司の小林緑郎(ろくろう)氏(66)によると、文献の記録こそないが、辺りでは1週間ほど戦闘が続いた。

 境内には、市の天然記念物、大楠がある。言い伝えでは、その幹にも多くの銃弾が撃たれた。

 小林氏は「以前、台風で倒れた別の大木を製材所で切ってもらうと、『中から鉛が出てきた』という報告もあった」と明かした。

 神社の南側にある日蓮宗「宗覚寺」山門には、刀傷が残る。宗覚寺には八代方面での薩摩軍の本営が置かれた。兵火で山門を残して全焼した。

 八代神社から西へ1・5キロほど。球磨川の北側の堤防、萩原堤沿いに「宮崎八郎戦没ノ碑」が立つ。碑文は、作家の司馬遼太郎が揮毫(きごう)した。

 宮崎八郎は嘉永4(1851)年、玉名郡荒尾村、現在の荒尾市に生まれた。2年後には米国からペリー提督が浦賀に来航し、日本は激動の時代に入った。

 八郎は15歳から藩校の時習館で学んだ。維新後、東京で遊学中、征台論を建白し、明治政府による台湾出兵(明治7年)にも参加した。

 青年の八郎は、ルソーの『社会契約論』を訳した中江兆民の『民約論』に影響を受けた。

 人間は自由な意志を持ち、国家が正当化されるには、そんな自由意志が尊重されなければならない-。八郎は自由民権運動に傾倒する。

 明治8年4月26日、熊本県植木町に植木学校を設立した。やがて、熊本での自由民権運動の拠点となり、八郎は「九州のルソー」と称されるようになった。

 当時の自由民権運動は、明治政府への批判と結びついていた。県当局はわずか半年で学校を閉鎖させた。

 その後、西郷隆盛を担いだ薩摩軍が蜂起すると、八郎は約400人の同志を集めて熊本協同隊を結成し、薩摩軍に合流した。

 西郷の真意はいざ知らず、薩摩軍の中枢を占める桐野利秋ら薩摩士族は、自由民権の思想からほど遠い所にいた。八郎の決意をいぶかしがる人も多かった。

 合流を阻止しようと、中江兆民が熊本へ赴いた、という言い伝えもある。

 「八郎も西郷らが自由民権論者ではないことは、見抜いていたはず。それでも西郷の力を借り、ときの政府を打倒し、その後に西郷と争い、天下を取ると考えていたのではないか」

 熊本県博物館ネットワークセンター学芸員の中村幸弘氏(46)はこう語る。だが、史実は八郎の思うとおりには進まない。

 八代で官軍との本格的な戦闘が始まると、薩摩軍は八郎に、別府晋介らとともに八代行きを命じる。八郎は明治10年4月6日、萩原堤で奮戦の末、戦死する。享年27。懐には『民約論』が抱かれていた。

 八郎は早世した。その弟のうち民蔵、弥蔵、滔天(とうてん)の3人はその後も民権運動に関わり、孫文の革命運動も支援した。

 衝背軍による八代進軍は田原坂の戦いと同じく、薩摩軍の敗北を決定付けた。

 西南戦争を最後に士族の反乱は幕を閉じ、九州における明治維新も終わった。(谷田智恒)

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