PR

地方 地方

【坂東武士の系譜】番外編・真夏の怪談(下)新田義興 矢口の謀殺、怨霊となり復讐

Messenger

 鎌倉幕府を滅ぼし、南朝の忠臣として活躍した新田義貞(1300?~38年)は、本拠地・新田荘があった群馬県太田市では郷土の英雄だ。上毛かるたでは「歴史に名高い新田義貞」と登場する。

 次男・新田義興は義貞死後も20年、南朝の武将として立場を変えずに戦ったが、義貞に比べて知名度はかなり低い。それでも東急多摩川線武蔵新田駅近くに義興を祭る新田神社(東京都大田区矢口)があり、この勇猛な武将がたたえられている。

 義興は多摩川を渡る矢口の渡しで敵に謀殺された。だが、そのままでは終わらない。「太平記」では義興謀殺の次の場面で早速、謀殺の協力者、江戸遠江守(とおとうみのかみ)がたたられる。

 義興謀殺の功績で、所領を得た江戸が新領地に向かう際、矢口の渡しで暴風雨と雷に遭い、迎えの舟が沈む。「ただごとにあらず。義興の怨霊だ」。川から離れて走り去るが、背後には黒雲、耳元には雷鳴。あまりの恐ろしさに振り返ると、死んだはずの義興の姿。肩胛骨(けんこうこつ)あたりを矢で射抜かれ、落馬した江戸は郎党に助けられて館に帰ったが、7日間、手足をばたばたさせて叫び死んだ。

 そして、謀殺の首謀者、関東管領・畠山国清の夢にも義興の怨霊が現れる。鬼となった義興が地獄の獄卒を従えて鎌倉公方・足利基氏の陣を攻めようとしているところで目が覚めた。畠山が側近にこの話をし終えないうちに雷火が落ちて住宅300余棟、寺社などが一度に灰燼(かいじん)に帰した。このように義興を陥れた連中は哀れな末路をたどる。怨霊としてのパワーは義貞を超えている。

                   ◇

 ■新田義興(にった・よしおき)1331~59年。文和元(1352)年には鎌倉を攻略、足利尊氏を一時窮地に追い込んだ。

                   ◇

 参考文献は、「新田三兄弟と南朝」(久保田順一、戎光祥出版)、「太平記」(兵藤裕己校注、岩波書店)など。

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ブランドコンテンツ