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【戦後73年 ガダルカナル戦】(上)戻ったのは「ベルト通し」一つ

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【戦後73年 ガダルカナル戦】
(上)戻ったのは「ベルト通し」一つ

江本金次郎氏(中央)が実家に送った写真。戦闘の合間に撮影したと思われる 江本金次郎氏(中央)が実家に送った写真。戦闘の合間に撮影したと思われる

 76年前の8月、太平洋のガダルカナル島(ガ島)で激戦が始まった。九州ゆかりの部隊も、飢えに苦しみながら戦った。戦後73年が経過し、戦争体験の継承は難しくなった。それでも、先人の死に少しでも報いようと、最期を知りたいと願う遺族や、戦いから教訓を引き出したいという人がいる。 (大森貴弘)

 福岡県行橋市の不動産業、江本満氏(47)は、赤茶けたベルト通しを、自宅の仏壇で大切にしまっている。大正10年生まれの伯父、金次郎氏の遺品だ。

 金次郎氏は、ガ島で亡くなった。

 戦死公報には「昭和18年1月15日午前8時30分、アウステン山に於(お)いて戦死」とある。

 金次郎氏の母、つまり江本氏の祖母は、「砲弾が足に当たって死んだ」と聞いたという。

 遺骨はなく、ベルト通しだけが帰ってきた。

 一度も会ったことのない伯父だが、江本氏は身近に感じてきた。

 祖母は「金ちゃんが生きていたら」が口癖だった。他の伯父も、ことあるごとに金次郎氏を話題にした。

 何より生前の写真を見ると、江本氏自身にそっくりだった。

 「真面目で物静かで、稼いだお金は、全部実家に送金したそうです。それでいて力は強く、軍の相撲大会で優勝したこともあったとか。似ているだけに、あこがれの存在でした。昔から、つらいことがあるとよく伯父のことを考えました。食料も弾薬もない中、どんな思いで死んでいったんだろうって…」

 ■菊部隊敗るるとき

 金次郎氏は、歩兵第124連隊に所属した。

 陸軍は、地域ごとに連隊を設け、「郷土部隊」として動員した。隊員は「故郷に恥をかかせられない」と戦陣で功を競った。

 124連隊は昭和12年9月、現在の舞鶴公園(福岡市)で編成された。福岡県出身者が多かった。通称は「菊部隊」だった。

 「帝国陸軍でもナンバーワンを誇る部隊であり、菊部隊敗るるときは日本敗るるときなり、と自負していた精強部隊であった」

 124連隊所属の元陸軍伍長、高崎伝氏は著書「最悪の戦場に奇(き)蹟(せき)はなかった」にこう書いた。

 中国大陸からボルネオ島、フィリピン。精強部隊は、激戦地を渡り歩いた。

 17年8月、ガ島に米軍が上陸した。124連隊は、米軍を島から追い落とす作戦に投入された。

 ガ島は「餓島」だった。

 補給がままならず、日本軍は、敵軍に加え、飢えや病気との戦いに苦しんだ。

 「乾パンはもちろん、コンペイ糖まで粒で数えて配られ、ミカンも1個を数人で分けて食った。それも不足すると、ハチやアリの巣を捜してゆがき、レンコンのように刻んでほおばり、木の実を拾った。1メートル以上もある大トカゲを撃ち殺してたいらげ、大トカゲが一匹もいなくなると、チョロチョロと赤い舌を出してはい回るトカゲをも食い尽くした」(杉江勇著「福岡連隊史」)

 それでも、124連隊は島を見下ろす要地、アウステン山を守り続けた。

 ガ島から、全ての日本軍が撤退したのは18年2月だった。3千人以上いた124連隊は、200人余りになっていた。

 高崎氏の「最悪の戦場に奇蹟はなかった」にはこうある。

 「ガ島で餓死、あるいは戦病死した者たちは、そこがあまりにも悲惨な戦場であったため、全員が戦死とされ(中略)ガ島の戦死者2万余名で、真の戦死者は4分の1以下であろうか」

 ■「感謝は尽きない」

 金次郎氏はガ島に渡る直前、戦友と3人で撮った写真を実家に送っていた。裏にはこう書かれていた。

  今川村 中村松彦

  行橋町 江本金次郎

  門司市 持松茂穂

  大切にして下さい

  昭和十七年四月

 江本氏は10年以上前、伯父の最期を知りたいと、兵士や遺族でつくる会を通じて、写真と名前を公開した。

 だが、金次郎氏につながる情報はなかった。会も活動を休止した。

 行橋市では今年12月、大相撲の巡業がある。25年ぶりという。江本氏は、地元実行委の会長を務める。

 「相撲が強かった伯父が、僕にこの役を引き寄せてくれたのかもしれない。伯父の最期は、結局分からずじまいでした。それほど戦地は厳しかったのでしょう。だからこそ日本のために戦った伯父たちへ、感謝は尽きません」