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【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】薩●山の戦い(静岡市清水区) 戦国史上まれに見る長期戦

信玄が本陣とした清見寺山から見た薩●山陣場(八幡平・陣馬山)。南北3.5キロに及び、北条氏の大軍が布陣した
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 断交した武田晴信(信玄)の駿河侵攻に備え、今川氏真は永禄11(1568)年12月、清見寺(静岡市清水区)へ出馬。先陣として庵原安房守、岡部忠兵衛、小倉内蔵介らを薩●(さつた)山(八幡平)に布陣させて迎え撃った。

 しかし、重臣の朝比奈信置、葛山氏元らが信玄の調略で戦場を放棄したため今川軍は総崩れとなり、氏真は掛川城へ逃れ、駿府も占拠されてしまった。正室の早河殿(北条氏康の娘)は徒歩で駿府から脱出したという。

 信玄の軍事行動は北条氏にも連絡が入り、今川氏救援に向かった薩捶山から西麓の興津にかけて404人を討ち取ったと史料にはある。北条氏の素早い援軍により、信玄は兵を興津川へ返したが、すでに甲斐に通じる往還道は抑えられていた。山西(志太平野)には今川軍の抵抗勢力を残したままで、信玄はこの興津に封じ込まれる形になった。

 12年正月には、北条氏政自らが一説で4万5000人という大軍を率い、本陣を薩捶山上部に移した。武田軍の前進基地は穴山信君(のぶただ)らが守備していた、興津川を挟んだ横山城にあったが、戦いは全軍がぶつかり合うことはなく、夜駆けによる小競り合い程度だった。戦いは長期化し、戦国史上まれに見る5カ月以上に及んだ。信玄をここに長期間封じ込め、上杉輝虎(謙信)の出撃を待つという北条氏の作戦通りに運んだ。信玄の書状には「このままだと武田氏は滅亡してしまうので信長に頼むほかない」と切迫した状況がつづられ、興味深い。

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