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【今こそ知りたい幕末明治】(68)「勤王の母」の大和心

高大な心をもつと詠まれた野村望東尼(個人蔵)
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 歴史上の人物について知るには、本人が書いた手紙や日記などを読み解くのが一番であるが、女性の場合にはなかなかそうしたものが見つからない。というのも、女性の手紙などは、相手へのご機嫌伺い、贈答へのお礼、訪問の日程調整といったごく日常的な話題が大半を占め、政治向きの話などの社会的に重要な話題が少ないため、子孫がそれらを保存しない場合が多いからである。

 ところが野村望東尼の場合は、600点を超す遺品が残され、それらが現在福岡市博物館に所蔵されている。その中に「金玉文藻帖」という折帖(おりちょう)がある。

 「金玉文藻帖」には、海妻甘蔵撰、井土周郁書の序文に続き、「八月十八日の政変」で京都から長州に落ち延びた七卿のうちの三条実美ら6人の公家の短冊、福岡藩家老の加藤司書や平野国臣、高杉晋作、西郷隆盛をはじめ福岡内外の勤王諸士の和歌や漢詩、手紙などが収められている。それらはいずれも、望東尼と志士たちとの交流の様子がうかがえる貴重な資料である。

 その中には、福岡藩の尊王攘夷派の中村用六(本名・無用、以下同じ)、円太(無二)、恒次郎(無可)の3兄弟が望東尼に贈った和歌もある。

 語り合へば 心もすずし

 吹きおろす 峰の松風

 庭の真清水(ましみず)

 右の用六の歌からは、往時の平尾山荘の景観が偲(しの)ばれる。当時山荘の庵は松の大木に囲まれていた。庭の真清水は、庵の裏手にある泉のことで、現在も水をたたえている。望東尼はこれを「山の井」と呼んでいた。用六は山荘を訪れた折、山から吹き下ろす松風を肌に感じ、山の井の真清水を見ながら、望東尼と語り合っているうちに心が涼やかになったのである。

 彼は3兄弟の中で唯一、明治期まで生き延びた。明治元(1868)年には、地元・福岡の重職を任された。だが、同6年に一揆が発生し、鎮撫(ちんぶ)の任を任されていた彼は、暴徒が県庁に侵入したことに対する責任を取って切腹した。

 次男の円太は「望東高尼にまいらするとて」という詞書で、次の歌を詠んでいる。

 いろにいでて 我天地(わがあめつち)の

 大けなき 心を見する

 女郎花(おみなえし)かな

 天地のように高大な、もったいないようなお心をお見せくださる女郎花ですよと、望東尼を女郎花にたとえて詠んだ。この歌からはいかに2人の心が深く通じ合っていたかがわかる。

 元治元(1864)年3月、円太が桝木屋の獄につながれていた時、仲間の手引きで脱獄した事件があったが、その実行計画が平尾山荘で練られ、望東尼もその場に居合わせたという。

 円太は激しい性格の持ち主で、その後も同志と足並みをそろえることができず、ついに翌年1月、同志たちから迫られ自害に追い込まれた。望東尼は京都の勤王商人馬場文英宛の手紙の中で、同志たちのとった行動は間違いであったと述べている。しかし、この自分の見解が、血気にはやる志士たちにわずかなりとも漏れ伝えられたらどんなことが起きるかわからないので、決して漏らさないでほしいと釘をさしている。

 次は三男の恒次郎の歌である。

 君とわが 心は同じ

 いつまでも 明日はいづち

 に 別れ行くとも

 明日はいずれの地に別れて行ったとしても、心はいつまでも同じであると詠んでいる。恒次郎と望東尼とは35の年齢差があったが、彼は望東尼のことを同志とみていたようである。その彼は元治元(1864)年の禁門の変で戦死した。23歳の若さであった。望東尼は「誠に誠に心美しき若人にて、御用にもたつべき者、惜しきことと誰も誰も申し合へり」と馬場宛ての手紙に書いている。

 望東尼の切なる願いは、次の詠歌に込められている。

 もののふの 大和心を

 より合わせ ただひとすじ

 の 大綱にせよ

 望東尼は常々、志士たちが心を一つにして国事に臨むことを願っていた。それぞれの志を一本の大きな綱として縒(よ)り合わせ、この国のかたちを変えていく。そのことが勤王の母ともいわれた望東尼の切なる願いであったのである。この歌は志士たちのモットーになっていった。

                   ◇

【プロフィル】谷川佳枝子

 たにがわ・かえこ 昭和30年、福岡市生まれ。九州大学文学部卒。平成29年から太宰府文化研究所客員研究員。現在開催中の「太宰府幕末展」を監修。望東尼の歌集『向陵集』を翻刻校訂。著書に『野村望東尼-ひとすじの道をまもらば』など。

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