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【今こそ知りたい幕末明治】小倉と長州、ひとまず止戦

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【今こそ知りたい幕末明治】
小倉と長州、ひとまず止戦

小倉藩が軍事拠点を置いた金辺峠に建つ島村志津摩顕彰碑 小倉藩が軍事拠点を置いた金辺峠に建つ島村志津摩顕彰碑

 幕府にとって九州の「抑え」であった小倉藩は、慶応2(1866)年の第2次長州(幕長)戦争で、孤軍奮闘を続けた。特に10月になると、勢いづく長州藩の猛攻にさらされることになる。やや煩雑になるが、戦の動きを見ていきたい。そこには「敗者」の意地が詰まっている。

 幕府側は9月、芸州口(広島県境)、石州口(島根県境)から兵を引き揚げた。長州藩はここの戦力を小倉口に回すことが可能となった。両藩の実高をみると小倉藩の21万石程度に対し、長州藩は80万石を超えていた。すなわち兵の動員力で4倍の差があった。

 10月4日、長州勢の進撃が始まった。小倉城下の篠崎口から出撃し、城下を流れる紫川の東西両岸に沿って南下した。進軍経路は、現在の北九州市小倉北区から小倉南区にあたる。

 このうち西岸では、小倉勢が砲台を築いた今村、大興寺山(現大興善寺)、蒲生(かもう)八幡山(現蒲生八幡神社)、虹山、守恒(もりつね)などで、両軍が衝突した。小倉勢は砲台から激しく応射したが、衆寡敵せず、各台場はその日のうちに陥落した。

 長州勢は守恒などで民家に火を放つと、さらに小倉勢の高野、祇園町砲台に迫った。

 小倉勢も応戦する。小倉藩は、長崎で新式の銃砲を入手していた。また、長州が得意とした農兵を使ったゲリラ戦法も駆使するようになっていた。

 その中で、一刀流の剣客、青柳彦十郎(武知)は、野戦砲を撃たせて奮戦した。青柳は、小倉藩の士(さむらい)大将、島村志津摩配下で、農兵隊の隊長だった。

 小倉勢の砲術家、門田栄も、弾薬が尽きるまで応戦したが、敵方の兵数、物量に圧倒され、撤退を余儀なくされた。

 この日の戦いで、島村志津摩配下の歩兵隊長で、長州側からも驍将(ぎょうしょう)(勇将)と呼ばれた松本東三郎(藤三郎とも)は、蒲生村岩鼻で雨のような銃弾を浴びた。腕を撃ち抜かれながらも采配をふるったが、夜に本営で亡くなった。

 長州勢は高野、祇園町砲台を陥落させると、またもや村に火を放つ。その夜は石田に布陣した。紫川東岸を進んだ長州勢も石田に侵入した。

 翌5日、長州勢は攻撃を続ける。

 中山、志井、妙見山砲台を陥落させ、徳力、能行(のうぎょう)(現長行(おさゆき)、徳吉西など)まで侵入する。同じ日、横代、石田方面では、長州勢が隠蓑(かくれみの)の集落に放火した。ここは源平の昔、壇ノ浦を逃げのびた安徳天皇が、この地で藁(わら)の中に隠れていたという言い伝えがある。

 それはともかく、劣勢を覆せないまま、小倉藩の島村志津摩は7日、高津尾の本営を引き払って呼野(よぶの)方面に退却し、険難の金辺(きべ)峠の守備を固めた。金辺峠は現在の北九州市小倉南区呼野と田川郡香春町をつなぐ。

 一方、停戦に向けた動きもあった。10日、熊本藩士の秋山義左衛門(『防長回天史』では秋吉久左衛門)と、薩摩藩士の三雲東一郎が呼野に来て、小倉と長州の和議を図った。

 これに先立ち、小倉藩が密かに藩士の吉川種次郎を太宰府に派遣し、三条実美ら五卿を守る熊本藩士に、長州藩との和睦仲介を依頼していた。

 小倉藩士の茂呂(もろ)三郎平(御元〆役、禄高300石)は、小倉にある長州勢陣屋と下関に派遣され、「小倉藩領のうち、企救郡を長州藩に引き渡す」ことを条件に和睦交渉を働きかけた。

 だが、長州側が無理難題をふっかけ、交渉は進まなかった。小倉藩世子、小笠原豊千代丸(のち忠忱(ただのぶ))を人質として差し出すよう要求したのである。

 同13日夜、長州側が占拠している民家に、小倉藩側から次のような書面が投げ込まれた。

 「止戦談判中であることはご承知のことと思う。軍使を派遣するので、受け入れの可否を答えてもらいたい」

 15日朝、上曽根の浄土寺で両藩の会談が実現した。小倉藩からは野島要人(寄合、禄高150石)と佐々木五郎左衛門(馬廻、130石)が、長州側からは山県狂介(のち有朋)と、長府藩士で報国隊軍監の品川省吾(氏章)が出席した。

 交渉は続き、10月21日に、ひとまず止戦と決まった。

 幕府から「長州藩再征討」の命令があっても小倉藩は出兵しないというのが条件であった。

 さらに小倉勢が軍事拠点を置いていた金辺峠、狸山峠に、小倉・長州双方が関門を作り、互いにみだりに踏み出さないようにするとの取り決めがなされた。

 ただ、長州藩が主張していた豊千代丸人質の件は保留とされた。終戦を迎えるまで、さらなる交渉が続くことになった。

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【プロフィル】守友隆

 もりとも・たかし 昭和56年、山口県柳井市生まれ。九州大文学部卒、同大学院博士課程修了。博士(比較社会文化)。平成23年4月から北九州市立自然史・歴史博物館(いのちのたび博物館)学芸員。昨年秋開催の特別展「最後の戦国武将 小倉藩主 小笠原忠真展」担当。