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【平成の商業施設はこうして生まれた】キャナルシティ博多(2)

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【平成の商業施設はこうして生まれた】
キャナルシティ博多(2)

JPIが作成したキャナルシティ博多の初期の模型(福岡地所資料より) JPIが作成したキャナルシティ博多の初期の模型(福岡地所資料より)

 ■「人はまっすぐに歩かない」 街をつくる型破りな設計

 「博多を盛り上げる施設をつくりたいと思っとるんです。一度、見に来てもらえませんか」

 1988(昭和63)年2月。米ロサンゼルスの設計事務所に、福岡地所の藤(とう)賢一(68)=現特別顧問=の声が響いた。日本語だった。

 それでも、建築家のジョン・ジャーディ(1940~2015)は、藤の言葉に耳を傾けた。言葉の壁を越えて、熱意が伝わっていた。

 5年前の昭和58年7月、福岡地所は、「博多の再興」を掲げ、鐘紡跡地再開発事業の基本計画を発表した。

 巨大なビルを建設し、ホテルやテナントを入れるプランだった。当時の大型開発の主流だった。福岡地所という「ベンチャー」が手掛けることへの驚きはあったが、計画として物珍しさはなかった。

 福岡地所は、計画の具体化を急いだ。ところが59年、キーテナントに予定していたダイエーグループから、「一時待ってほしい」との連絡が入った。「流通革命」「価格破壊」を掲げて成長したダイエーだが、業績が悪化していた。キーテナントがなければ、開発は進められない。

 さらに、地元商店街との調整も難航した。

 また、61年に始まったバブル景気で、想定する建設コストがどんどん膨らんだ。着工の判断は、とてもできなかった。62年まで、プロジェクトは中断を余儀なくされた。

 だが、プロジェクトリーダーの藤らは、この「待ち時間」をも活用して、計画を大きく転換した。

 藤は来る日も来る日も、思い悩んでいた。

 約3万5千平方メートルの広大な土地を使った再開発事業だ。プロジェクトの行方は、福岡市の将来像を左右する。

 藤は何百通りとプランを描いた。だが、一つも納得できなかった。「人生をかけてやってるのに、どれもおもしろくない」

 そんなときに見た1枚の写真が、道しるべとなった。

 米カリフォルニア州サンディエゴのショッピングセンター「ホートンプラザ」だった。色鮮やかな外観と、曲がりくねった通路。初めてみるタイプの商業施設だった。おもしろみを感じた。

 早速、施設に足を運び、さらに驚いた。屋根が開けたオープンモール。見通しの悪い通路は迷路のようなのに、開放感があった。訪れた人は、生き生きと過ごしていた。

 設計者がジョン・ジャーディだと知った。

 藤は、知人を介してジャーディが代表を務める「ジョン・ジャーディ・パートナーシップ(JPI)」を紹介してもらい、事務所に向かった。

 「JPIになら、答えがあるかもしれない」。一縷(いちる)の望みをかけた。

 自分自身で感じたホートンプラザの素晴らしさを、通訳の英語と、自身の博多弁で懸命に伝えた。

 「人はまっすぐに歩かない」。それがジャーディの設計哲学だった。街中には、折れ曲がった道や階段、坂道がある。そこに人は散策の楽しさを見いだす。

 ジャーディは、建物が占める空間を「街」に見立て、雑然さを人工的に再現していた。機能性だけではない、「遊び」がそこにあった。

 聞くと、ホートンプラザは地域の再生につながったプロジェクトであり、完成まで十数年かかった。「博多再興」を掲げる藤は、自身の思いを重ね、ジャーディの熱意に心を打たれた。

 ジャーディも喜んでいた。「ホートンプラザの魅力がわかる日本人がいる」

 2人は、すぐに意気投合した。藤はジャーディに設計を依頼しようと考えた。

 このころの日本国内で、海外の設計事務所にデザインを依頼している例は、少なかった。

 藤の話を聞いた福岡地所の役員も、ジャーディが何者なのか、全く知らなかった。反対意見も出た。

 だが、社長の榎本一彦(74)=現会長=は違った。

 「福博一体化を目指すなら、思い切ったことをやらないとだめだ。単なる商業施設ではなく、人が楽しい時間を過ごす『街』をつくろう。設計を頼め!」

 商人の町だった博多と、城下町・福岡。歴史的に福岡市は、2つの中心を持っていた。だが、福岡に含まれる天神地区では、平成元年の開業に向けて、ソラリアプラザや、イムズなど商業施設の建設が進んでいた。

 再開発事業にかける榎本の意欲は、人一倍強かった。JPIへの発注が決まった。

                × × × 

 JPIに所属する設計士、ブライアン・ホンダ(63)=その後独立=は、プロジェクトチームの1人となった。

 日本の、それも知らない街から、突然やってきた藤に、おもしろみを感じた。

 具体的にどんな施設をつくりたいのか、よく分からない。ただ、とにかく熱意があった。

 「クレージーな男がやって来たなあ」

 ブライアンはハワイ出身の日系3世だ。日本に愛着もあった。チームは、ロサンゼルスの事務所で打ち合わせを重ねた。藤も何度も事務所を訪れた。

 「人の集まりがエネルギーをつくる。そのステージをつくることが、自分にとってのデザインだ」。ブライアンはそんな思いで仕事に励んだ。

 設計にあたって、ジャーディは、実際に福岡を訪れ、街を歩いた。博多の中心には那珂川が流れていた。インスピレーションを得た。

 藤とジャーディの初面談からわずか4カ月後、デザイン案ができあがった。

 施設の中心に、那珂川から引いた運河(キャナル)。緩やかな弧を描く運河を取り囲むように、商業施設やホテル、劇場が配置されていた。

 「建物」ではなく「街」をつくる提案だった。

 藤は直感的に、おもしろいと思った。榎本も「日本人じゃできない発想だ。すごいな」と関心した。

 藤は、ライフスタイルの変化に思いを寄せていた。

 昭和50年代後半、国内でミネラルウオーターが広がり始めた。水や太陽、風。それまで「当たり前」だった自然に、日本人が価値を感じるようになっていた。

 商業施設のコンセプトにも、こうした自然を取り入れた。

 理想を追うデザイナーと、事業性を求めるデベロッパーのせめぎ合いもあった。

 ジャーディの当初案は2階建てで、土地・空間を贅沢(ぜいたく)に使っていた。

 それではテナントが多く入らず、経済効率が悪い。魅力的な建物も、ビジネスとして成り立たないと、長続きしない。

 「損する施設をつくっちゃいかん。高層階にしよう」。榎本は現実的な注文をするのを忘れなかった。

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 福岡地所は、平成2年3月、新プランを公式発表した。

 「都市の中のもう一つの都市」。これが開発コンセプトとなった。街を舞台に多様なストーリーを生み出す「都市の劇場」。人が集まり活動する「場の創造」。こうしたアイデアが念頭に置かれた。

 那珂川の水を引くことは行政から待ったがかかり、水道を使った人工の運河となった。

 プランはできたが、藤はどこまでも貪欲だった。

 藤は、改良点を思いつくたびに、設計変更をJPIに依頼した。

 現在の設計現場で当たり前となっている3次元でのコンピューター支援設計システム(CAD)は、なかった。

 ブライアンらは、建物に用いる曲線や幾何学的な波線を、全て手書きで図面に描いていった。緻密な計算を繰り返し、デザインを検討した。大変だがおもしろみのある作業だった。

 プロジェクトの進展に合わせて、JPI側は来日し、福岡地所のスタッフと顔を突き合わせた。毎日が多忙だった。その分、家族のように親交を深めた。JPIメンバーは、藤を「トーサン」と呼び、慕った。

 平成5年6月、福岡地所は、建設に着手した。すでにバブルは崩壊していた。「無謀な決断だ」。批判の声も出る中での着工だった。 (敬称略)