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【今こそ知りたい幕末明治】(66)古城春樹 女たちの戦い

長府藩の姫たちが避難生活を送った来福寺
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 幕末の下関には、戦火をものともせず、戦った女性がいた。

 例えば、馬関戦争の際、戦場で獅子奮迅の働きをみせたという高橋キク。「女奇兵隊士」とも呼ばれ、その勇猛振りは、いまなお語り継がれる。

 また、幕長戦争(第2次長州征討)で、戦死した本田虎之助の仇(あだ)討ちを果たした姉妹もいる。姉は芳、妹は熊といい、奇兵隊への入隊を懇願したが許されず、特別の計らいで輜重(しちょう)部隊に編入。小倉に渡り、味方の援護を受けて敵兵8人を切り伏せたと伝わる。

 さらに、名はつまびらかではないが、砲声とどろく中、抜け道を走り、兵士たちに食料を運んだ長府藩士の妻もいたようだ。

 一方、長州との縁から下関で災難にあった女性もいた。

 長府藩の12代藩主毛利元運の正室、欽麗院(欽子)と、やはり13代藩主元周の正室、千賀子である。欽麗院は土浦藩から、千賀子は大洲藩から、それぞれ入嫁した。

 もともと2人は、江戸住まいだった。しかし、文久2(1862)年閏8月に、幕府が参勤交代制を緩和。大名の妻子は、在国(本国)・在府(江戸)とも自由としたため、同年11月21日から長府串崎の藩主居館での生活となった。

 それから約半年後の文久3(1863)年5月、長州藩は、海峡を舞台に攘夷を決行する。

 西欧列強の報復は早かった。翌月5日、フランス軍艦2隻が襲来。長府城下に向けて砲撃を開始した。砲弾は、海辺にあった藩主の居館を越えて着弾した。居館に残っていた藩主夫人ら奥向きは、急ぎ館を離れた。

 最初に目指したのは、居館の西、海から1キロほど内陸に入った覚苑寺(下関市長府安養寺)であった。しかし、砲声は激しくなるばかり。振り返ると、空は「稲妻雷雲の如く」なって、不安は募った。一行は、さらに北へ歩みを進めて、来福寺(下関市井田)を避難場所とした。

 来福寺に入ったのは、欽麗院と千賀子に加え、奥付きの家老、医師、女中、警備の侍など、計50~60人ほどであったという。当時の来福寺は、さほど部屋数があったわけではなく、数人で一室を使用した。夏の蒸し暑さは耐え難かったろう。

 避難後の食事も厳しいものがあった。戦時の決まりで、3度ともご飯1杯に梅干しとたくわん2切れ。ナスやウリの1つも出なかった。フランス軍艦が去った後、一行は改善されることを期待したが、お膳の上に変化はなかった。戦争で物価が高騰し、藩府も存外の物入りとして、奥向きの生活費を増補しなかった。

 風呂の問題も切実だった。当時の来福寺は、壁が抜け、湯殿もなかった。姫が入浴する際には、土間に板を渡して、行水をしたという。土間には屋根もなく、雨の日には、傘を用いた。

 姫が不満を漏らしたという記録はないが、女中は、「誠に誠にこの様な苦しき難儀の事はあるまじき」と、涙を流したとある。

                   ◇

【プロフィル】こじょう・はるき

 昭和43年、山口県下関市生まれ。島根大法文学部卒。民間企業などを経て、平成11年から市立長府博物館に勤務。22年、同館と市立東行記念館の館長。27年から市立歴史博物館館長補佐を務める。「三吉慎蔵と坂本龍馬」「長州と薩摩」などの展覧会を企画した。専門は幕末史。

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