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【平成の名所はこうして生まれた】角島大橋(4)「島民の夢、20世紀中に実現」

角島大橋を見守る「しま心」の石碑
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 ■足裏で感じた「橋」 言葉にならない思い

 冬の日本海は荒れる。平成5年に始まった角島大橋の建設工事は、厳しい自然との闘いだった。

 9年1月、風の強い日だった。現場担当の前田建設工業の責任者から、切迫した報告が上がった。

 「鳩島付近で、波が橋桁の高さを越えています!」

 橋桁は、工事前の波の観測結果を基に設計し、十分な高さを確保したはずだった。ところが、角島と本土の間にある鳩島付近で、波が計算を上回った。

 設計を担当した八千代エンジニヤリングの技術者、河辺真一(59)=現取締役広島支店長=と、吉岡正幸(51)=現広島支店技術部長=は、送られた現場写真を見て、顔色を失った。そこに写った波は、橋脚の2倍以上の高さに達していた。

 「大変だ。このままでは車が通れない」

 3年に入社した吉岡にとって、角島大橋は会社生活のすべてだった。「わが子」のようなものだ。「何としても、開通時期を遅らせるわけにはいかない」

 社内の波浪解析の専門家に聞いた。非常に珍しい現象で、原因は特定できなかった。

 吉岡らは山口県側とも話し合い、京都大防災研究所に相談した。災害軽減で、国内有数の研究機関だ。防災研の助言に従い、水槽実験を実施した。

 複雑な海底地形も再現し、ようやく波浪発生の条件を突き止めた。

 水深2メートルの場所で波長7メートルの波が、障害物にぶつかると、異常な高さになる-。障害物はできたばかりの橋脚だった。

 原因が分かれば、対策が取れる。

 河辺と吉岡はまず、水中に波を防ぐ構造物を設置する案を検討した。いわば防波堤を水中に作るようなアイデアだった。角島と日本海の美しい景観をなるべく壊すまいとの配慮だった。

 だが、かなり広い範囲での設置が必要となった。船の航行に支障を来す恐れがあった。

 橋脚の周りに消波ブロックを置く案が浮上した。景観の一部を損なうことになるが、背に腹は代えられなかった。

 阪神淡路大震災(7年)などを教訓に、橋脚の強度アップも求められた。

 「あっちを解決すれば次はこっちだ」。吉岡は、設計のやり直しに追われた。次々と現れる壁を、チームで乗り越えた。

 チームの一員に、山口県豊田土木事務所主任の藤山一郎(61)=後に県土木建築部長=がいた。

 角島大橋の建設は、気象条件のせいで、毎年10月ごろから半年間は、海上での作業が難しい。陸上で2~3メートルのブロックに分割して橋桁を造り、海上作業ができる4月以降に、一気に組み立てた。

 このプレキャスト工法(ブロック工法)は、国内での実績は、数例しかない。全国の工事関係者や自治体から、視察が相次いだ。特に、橋桁の組み立てが本格化した平成8年からは、年間2千人近くが視察に訪れた。

 藤山は、視察対応に忙殺された。休日もなかった。何とか家族サービスをしなければと、小学生の長男と長女を、現場近くの海水浴場に連れて行った。視察対応の合間を縫って、海で遊ばせた。

 視察は大人だけではない。角島小学校の児童には毎年、橋が完成した所まで歩いてもらった。1年ごとに、歩く距離が長くなった。

 「はしを作ってくれるおじちゃんへ 早く作ってほしいけど、あんぜんに気をつけてがんばってください」

 島の子供は必ず、手紙をくれた。習ったばかりの漢字交じりの文面だ。現場事務所の壁に張り出すと、涙ぐむ作業員もいた。

 大規模プロジェクトは、利害関係が複雑に入り組む。どんなに公益性の高い事業でも、反対する人はいる。藤山は説明会で罵声を浴びたこともあった。

 角島大橋は違った。漁協や周辺住民は、説明会で「こまい(細かい)こと言わんから、早くやってくれ」と口をそろえた。

 それだけ期待を感じた。完成予定は平成12年、すなわち西暦2000年だ。藤山は心に決めていた。

 「島民の夢を、何としても20世紀中に実現させる」

 美しい空と海の間に、橋は少しずつ伸びていった。

                 × × ×

 橋の建設中から、将来の観光に役立てようとする試みが始まった。

 「観光振興を協議する会のメンバーになってほしい」。ホテル西長門リゾートの庄司隆治(60)=現取締役総支配人=に9年、山口県豊北町(現下関市)から打診があった。

 「なんで私が」。当初、庄司はいぶかしんだ。

 確かに、ホテル西長門リゾートは橋の本土側にある。だが、庄司の役職は福岡営業所長であり、普段は福岡市にいるからだ。

 しばらくして、豊北町の考えにたどり着いた。福岡都市圏から、観光客を集めようという狙いだった。

 豊北町という日本海側の小さな町が示した、目一杯の大きな意気込みだった。庄司は心が動いた。

 西長門リゾートは、昭和52年に開業した。千葉県の鴨川グランドホテルが運営する。この地を訪れた鴨川グランドの社員が、海岸の白い砂をコーラの瓶に入れて、社のオーナーに見せたところ、「ここにホテルを作るのは使命だ」とトップダウンで立地が決まった。

 庄司自身、最初の配属が、西長門リゾートのフロント担当だった。わずか10カ月の勤務だったが、ホテルマンとしてのイロハを学んだ。

 「オーナーがほれ込んだ景色を、全国区にするチャンスだ。地域をいかに売るかは、ホテルにとっても大切だ」

 庄司は協議会のメンバーを引き受けた。

 観光に携わる事業者ら10人前後で、話し合いを始めた。

 「白い砂浜と青い海は、テレビ映えする。テレビ局へPRのキャラバンをやりましょう」

 庄司は提案した。福岡市内のテレビ局を訪ね歩いた。

 「3年後にこの橋ができるんですよ」。建設途中だが、引き伸ばした建設現場の写真を見せた。

 「おお、海の色がすごいですねぇ」

 計算通り、テレビ局側の心をつかんだ。庄司らは情報番組などに出演し、完成前から角島大橋をPRした。

                 × × ×

 平成12年11月3日、角島大橋が開通した。着工から7年を費やした。

 橋の本土側で式典が開かれた。地元選出の国会議員、安倍晋三(63)や林芳正(57)、山口県知事の二井関成(せきなり)(75)らがテープカットした。島民を含む周辺住民が渡り初めをして祝った。

 島出身の豊北町議、古野学(85)は、渡り初めの前に靴を脱いだ。アスファルトの冷たさが、足裏に伝わった。

 古野は20年ほど前に、角島大橋の建設期成同盟会が設立した当初から、役員を務めていた。

 「ここを渡れば角島に行けるのか」

 色々な思いがわき起こったが、言葉にならなかった。一歩一歩、島に向かって歩いた。

 橋の構想が動く前、船の中で長男を出産した角島の保健師、中野和子(66)は、開通式を待てなかった。悪いことだと分かっていたが、式典の数日前、日が暮れてから柵を乗り越え、本土まで歩いた。

 往復4キロ近くある。1時間はかかったはずだが、全く疲れなかった。

 「歩いて渡れたんだぁ」。きつねにつままれたような気持ちになった。

 開通式典には、主役が一人欠けていた。島の建設運動を引っ張ってきた工藤徳一(故人)だ。

 工藤は町議など公職を全て退き、角島で食料品店を営んでいた。

 表舞台に立たなかった工藤は、長女の中尾美津保(64)に、静かにこう語った。

 「これでやっと、僻地(へきち)でなくなる。島民の暮らしはきっと豊かになる」

 工藤は、平成19年に亡くなった。中尾は「角島大橋は、父の人生をかけた橋なんだと思います」という。

 角島大橋は、山口県を代表する観光名所になった。開通前、19万人だった豊北地区の観光客は、29年には112万人に達した。

 島側の展望スペースに、「しま心」と書かれた大きな石碑が建つ。開通に際し、古野が知事の二井に揮毫(きごう)を依頼した。

 「島の人たちの心が実って、角島大橋になった」

 「しま心」は、大勢の観光客を静かに見守っている。 (敬称略)

  =おわり

 この連載は大森貴弘が担当しました。

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