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【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】河東一乱(駿東郡・富士郡) 今川の親武田路線に氏綱激怒

富士信仰の霊場である「浅間塚」または「富士塚」と呼ばれる周辺に吉原城伝承が伝わる=富士市鈴川
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 謎の多い「花蔵の乱」に勝利し、天文5(1536)年6月、今川家の当主となった義元。父・氏親と兄・氏輝は甲斐の武田信虎と敵対関係にあったが、6年2月には信虎の娘を正室に迎えた。さらに信虎の嫡子・晴信(信玄)に対し摂関家に関わる高い身分の三条公頼(きんより)の娘を正室に仲介するなど、親武田氏路線に転換した。

 これには姻戚・同盟関係にあり、共に武田氏と戦ってきた小田原の北条氏綱が激怒して旧領の駿東郡から富士郡を席巻、富士川を越えて興津まで進軍した。義元も兵を差し向けて富士川を挟んで臨戦態勢を敷いた。富士川の東地域での戦闘から「河東一乱」と呼ばれる。この時期を第1次河東一乱、次回で紹介する天文14(1545)年の長久保城(長泉町)の戦いの時期を第2次と称され、断続的だが17年に及んだ。

 先学による「第1次」の研究によると、北条氏は河東だけでなく、遠江・三河まで攻略を企てていた。というのも、氏綱が義元に反目していた遠江今川氏の堀越氏を懐柔。井伊谷(浜松市北区)を領有していた井伊氏と奥平氏に出兵を要請し、遠江国を平定すれば500貫文の土地を与えるとする北条氏の史料が見つかり、今川領である駿河国を東西から挟撃していたことが分かる。

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