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《自慢させろ!わが高校》宮崎県立高鍋農業高校(下) 宮崎の礎築くリーダー教育

初代校長の斎藤角太郎氏(高鍋農業高校創立百周年記念誌より)
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 ■初代校長「斎角精神」息づく

 「農家に畜産家や酪農家、そして食品加工業者が集う一つの集落のようなものです」

 宮崎県小林市で約20頭の乳牛を飼育する大山牧場の大山雅行氏(38)=平成9年卒=は、高鍋農業高校(高農)で過ごした3年間を、こう振り返った。

 校内では生徒代表の話し合いで、学校行事などの予定や中身を決める。

 今、高農には園芸科学、畜産科学、食品科学、フードビジネスの4学科がある。学科ごとに異なる意見、そして教員らの考えをまとめていく。まるで関係者の寄り合いで、集落の方針を決めるようだという。

 生徒は議論のまとめ方を、実地で学んでいく。

 大山氏は卒業後、県内の若手就農者が集まる県農協青年組織協議会(JA宮崎県農青協)の委員長を3年、全国農協青年組織協議会(JA全青協)の副会長を1年務めた。

 「落としどころをどうするか、常に考える習慣ができていた。利害が対立する難しい議論のまとめ方も、すべて高農時代に鍛えられた結果です」と語った。

 若者を鍛えるもう一つの場所が、学校敷地内にある生徒寮「明倫寮」だ。

 寮は昭和40年に完成した。3年間の共同生活を通じて、自営農家に必要な素養を学ばせる目的だった。大山氏も寮に入った。

 本年度は全校生徒の約半数にあたる192人が入寮している。

 寮生の朝は早い。

 午前5時40分ごろ、生徒が交代で国旗と校旗、県旗を掲揚する。朝礼、清掃、朝食と午前7時35分の登校までスケジュールが決まっている。この間、農園での剪定(せんてい)や牛の運動・搾乳などの仕事もこなす。

 放課後もこうした農作業に従事し、一日は感謝で終わる。就寝前の午後9時45分ごろ、生徒が廊下に整列する。かけ声を合図に、実家の方角を向き、男子はお辞儀、女子は手を合わせる。父母らに謝意を捧げる「故郷遙拝(ようはい)」だ。

 入寮時は、なじみのない儀式にとまどう生徒もいる。だが、毎日続けているうちに当たり前になるという。

 寮は生徒の自治が原則だ。選挙で選ばれる寮長を筆頭に、15人程度の役員が運営を担う。

 園芸科学科3年で寮長の藤本広太さん(17)は「しんどくないといえば、嘘になる。それでも卒業して、地元に戻ったら若手の代表として、地域のために働かなければならない。その時に、寮長経験は必ず役に立つと思う」と語った。

 専任舎監と呼ばれる寮専属の教諭が見守る。

 通算8年、専任舎監を務める椿本直基教諭(54)は「最初は頼りなかった1年生が、最後にはまとめ役として活躍できるようになる。生徒の人間的な成長を実感します」と話した。

 椿本氏は続ける。

 「普段の生活はどうなのか。人間関係は大丈夫なのか。単に、目の前の生徒の様子を見るだけでなく、より深い所まで観察できるようになりました」

 生徒だけでなく、教諭も大きく成長する。寮はそんな場所だという。

                 ■ ■ ■ 

 高農の敷地には江戸時代、高鍋城があった。

 安永7(1778)年、第7代藩主の秋月種茂が藩校、明倫堂を創設した。

 藩士はもちろん、農民や職人、商人の子弟にも入学を許した。身分を重んじた江戸時代としては、極めて珍しい教育機関だった。それほど人材育成を重んじたといえる。

 明倫堂の精神は、明治36年に誕生した高鍋農業学校(現・高農)にも流れる。

 初代校長、斎藤角太郎(1874~1931)が、人材育成の場としての高農を確立した。

 斎藤は現在の宮崎県西都市に生まれ、札幌農学校=現・北海道大学=で学んだ。高鍋農業学校に校長として赴任した時、28歳の若さだった。

 「人あってこその農業だ。地方農業の中核となる人物を育てる」

 クラーク博士で有名な札幌農学校は、「全人教育」を理念に掲げた。農業の専門知識にとどまらず、豊かな人間性と高い知性を兼ね備えた人物の育成を目指した。

 斎藤は高鍋に根付く明倫堂の精神と、札幌農学校の教育を組み合わせた。

 大柄で口ひげをたくわえた外見、そして厳格な性格から、斎藤は生徒や教諭から「大岩」と呼ばれた。

 校内での礼儀を徹底させた。学校の一体感を培おうと方言も禁止した。

 教壇に立つと、専門の農業経済学だけでなく、歴史や思想、時事問題など多岐にわたって教えた。生徒にとって難解な内容もあった。それは、「広い世界に関心を持ち、飛び出してほしい」との思いからだった。

 「大岩」は、恐れられるだけではなかった。学校運営の資金が足りなければ、私財を提供した。そのために借金することもあった。生徒の就職先を確保しようと、宮崎県内を走り回った。生徒は斎藤を慕い、卒業しても何かと理由をつけては学校を訪ねた。そんな訪問を、斎藤は何より喜び、もてなした。

 斎藤の活動は農業学校にとどまらなかった。時間を見つけては、地域の小学校を訪れ、講演した。

 「青少年には無限の能力、可能性がある。大きな希望を持って、勉強しなさい」

 斎藤の言葉に触発された若者は多かった。高農の人気は高まった。

 斎藤は大正15年までの23年間、校長を続けた。高農に彼が残した足跡を、関係者は「斎角精神」と呼ぶ。

 名物校長だけでなく、高農には大きな特徴があった。その一つが獣医養成課程だった。

 同課程があるのは戦前、九州で3校だけだった。獣医師免許の制度が改正される昭和14年まで、宮崎県内の獣医養成を一手に担った。

 そこでは先輩の獣医に同伴し、病気の家畜を診断する実習も多かった。

 元全国和牛登録協会宮崎県支部事務局長の黒木法晴氏(93)=昭和16年卒=は「獣医の先輩は、農家から厚く信頼されていた。そんな先輩の背中を目にしながら、日々の勉強に励んだ」と語った。

                 ■ ■ ■ 

 戦後の27年、現在の高農が誕生した。高農卒業生は、農業の枠を超えて活躍する。高農生活が一種のリーダー教育になっているからだ。

 宮崎県知事を20年務めた黒木博氏(1907~2001)=大正13年卒=は、戦後の宮崎県農業政策の礎を築いた。

 黒木氏は災害に強い農業を掲げ、早場米への転換やハウス園芸、畜産振興などを打ち出した。こうした施策の実現には、地域を変えるエネルギーを持った人材が必要だった。

 黒木氏の提唱で昭和37年、県内の20~30代の若手農家を対象にした研修組織による「農業繁栄のための学修活動」(SAP)が始まった。自治体や集落などさまざまな単位で、栽培技術や農業経営の学習と、地域振興に取り組んだ。

 農業の6次化や、まちおこしといった、現在にも通じる先進的な取り組みだった。

 活動の核となったのが、斎角精神にあふれた、高農卒業生だった。

 元自治相・国家公安委員長の上杉光弘氏(76)=昭和36年卒=は、高農卒業後、東京農業大通信課程で学びながら、SAP事務局長として活動を支えた。

 「国土と国民生活を支える農山村を守る。SAPの活動を通じて、この理念を培った」。上杉氏は力強くこう語った。

 昭和30年代、宮崎県の農産品出荷額は、全国の都道府県で30番前後と低迷していた。SAPの成果もあり、今や全国有数の農業県となった。

 斎角精神という土壌に、黒木氏が種をまき、大きな花を咲かせたといえる。

 宮崎市長の戸敷正氏(65)=昭和46年卒=は「高農で先輩後輩のつながりを大切にする心や、規律を守る精神、責任感が自然と身に付いた。後輩の皆さんにはぜひ、何ごとにも恐れずに行動する勇気を常に持ってもらいたい」と呼びかけた。 (中村雅和)

                   ◇

 次回は福岡工業大学付属城東高校の予定です。

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