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【今こそ知りたい 幕末明治】(61)守友隆 小倉勢かく戦えり 

長州藩と戦い抜いた小倉藩の士大将、島村志津摩の采配(北九州市立自然史・歴史博物館蔵)
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 第2次長州(幕長)戦争に端を発した小倉、長州両藩の戦いは続いた。慶応2(1866)年8月1日、城を自焼した小倉藩は戦闘を放棄したわけではなかった。企救(きく)、田川両郡の境である金辺(きべ)峠(現福岡県香春町)に一番備、島村志津摩隊が台場を築くなど、抗戦の構えを示した。

 8月2日、長州勢は馬関海峡を渡って小倉に入った。8日には小笠原家の菩提寺である広寿山福聚(ふくじゅ)寺(現北九州市小倉北区)に本営を構えた。長州勢は企救郡の占拠を目的としていたようだ。9日になると下曽根、葛原(くずはら)、湯川、城野(じょうの)に侵出した。

 その知らせを受けた小倉勢が同地に出撃し、戦闘となった。以後、断続的に戦闘が続く。

 10日未明、小倉勢は家老の小宮民部率いる部隊などが狸山峠(現苅田町)に出陣した。その後、曽根の長州勢と昼八つ時(午後2時頃)から暮六つ時(午後6時頃)まで戦闘に及び、双方とも引き揚げた。

 翌11日も朝六つ時(午前6時頃)から狸山付近で両勢が衝突した。小倉・長州それぞれが「自軍が優勢であった」と記録するが、この日の戦闘は小倉勢が優位であったと考えられる。

 17日昼九つ時頃(正午頃)、狸山峠の小倉勢に、下曽根から長州勢が迫った。察知していた小倉勢は「山々へ兵を配り処々より銃撃」した。奇襲・散兵戦術、すなわちゲリラ戦術は長州勢の十八番であったが、今度は小倉勢がそれを用いたのだ。

 敗走する長州勢を、小倉勢は追撃し、湯川まで追い払った。

 劣勢を受けて、長州藩の高杉晋作、軍監の時山直八が18日、湯川の陣営に入った。高杉は21日まで湯川、葛原におり、同日下関に戻った。

 誰の指示であったのだろうか。19日の暮れ、長州勢が下曽根村に放火したため、小倉勢は警備を固めたが、ほどなく鎮火した。長州勢はさらに24日、小倉城下の侍屋敷を全て焼き払った。小倉藩の間諜(かんちょう)が城下に潜入したという理由だった。

 こうした行為に憤怒したのであろう。小倉勢は反転攻勢に出る。

 28日未明、小倉勢は全軍で湯川、葛原の長州勢を駆逐する作戦に出た。「散兵」で長州の台場に迫った。長州勢は大砲・小銃に加え、二十拇(ドイム=センチ)臼砲で砲撃した。小倉勢は山間に潜み、散開して応戦を続けた。日暮れに及んで、小倉勢は企救郡高津尾の本営に引き揚げた。

 晦日(30日)朝六つ時、島村志津摩は諸部隊を率い、小倉近辺に「大巡邏(じゅんら)」と称して出撃した。

 稲や草が生い茂る季節だ。小倉勢は戦闘になると、田畑に散開、潜伏して銃撃を繰り返した。長州勢の援兵が駆け付けると、小倉勢は退却すると見せかけて、田圃(たんぼ)に潜み、突如斬り込んだ。夕刻、小倉勢は高津尾に帰陣した。

 9月8日夜半、島村志津摩率いる小倉勢は密かに小倉城下に迫った。城下にある兵器類を奪い、かつ城内の長州勢に夜襲をかけるためであった。

 勝手知ったる城だ。小倉勢は卯の上刻(午前5~6時頃)、紺屋町口門、到津(いとうづ)口門、篠崎口門から攻め込んだ。不意をつかれた長州勢は後退した。小倉勢はさらに室町、三ノ丸、二ノ丸まで進む。9日夕刻まで戦い、高津尾に引き揚げた。

 大いに奮戦する小倉勢だったが、思いもよらぬ命令が伝えられる。

 幕府上使の松平権之助(使番、禄高2千石)が9日、大橋(現行橋市)に到着した。その夜、上使と小倉藩主名代で小倉新田藩主の小笠原貞正が対面した。

 幕府からの命令は、14代将軍徳川家茂病没につき朝廷から「兵事見合」(停戦)の沙汰が下ったので、小倉藩においても「長州勢から攻めて来た場合は、長州に非があるので応戦して構わない。だが、小倉勢から攻めかかれば朝廷の停戦命令に背くことになり、小倉に非があることになるので大いに不都合がある」というものであった。

 つまり、戦争中の小倉藩に対し、防衛だけを認め、攻撃は禁止するという理不尽なものであった。

 このような状況下で小倉藩は孤軍奮闘を続けねばならなかったのである。

                   ◇

【プロフィル】もりとも・たかし

 昭和56年、山口県柳井市生まれ。九州大文学部卒、同大学院博士課程修了。博士(比較社会文化)。平成23年4月から北九州市立自然史・歴史博物館(いのちのたび博物館)学芸員。昨年秋開催の特別展「最後の戦国武将 小倉藩主 小笠原忠真展」担当。

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