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【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】早雲が愛した地(伊豆の国市韮山) 相模全土を平定し大往生

韮山城東側の城池背後の最高所が「天ヶ岳」。曲輪・土塁・障子堀が残存する
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 明応2(1493)年から伊勢宗瑞(北条早雲)が取り掛かった伊豆討ち入りとともに小田原城を奪取できたのは、今川氏親と関東管領一門の扇谷上杉氏が提携したためである。扇谷は管領の山内上杉氏と対立し、長年抗争を続けていた。扇谷から要請され同年9月、翌3年9月~11月には相模・武蔵へ今川氏親とともに出陣。氏親の甲斐武田攻めと、斯波氏の遠江侵攻などで激甚的な戦闘を繰り広げることになる。

 しかし、永正7(1510)年に入ると、抗争し合う間隙を縫って関東の領土拡大をしていく早雲のありようを察した両上杉は和睦して早雲に襲い掛かってきた。それに対抗するために築かれた権現山城(横浜市)で大敗北したが、宿敵の山内上杉顕定が越後で戦死したのもあって弱体化していった。好機と見た早雲は、扇谷上杉朝良と連携していた三浦道寸を標的に絞り、本拠の岡崎城(神奈川県平塚市)を攻め、敗走した新井城(同三浦市)で滅亡させた。同13年、早雲はついに相模全土を平定させることができた。相模・武蔵侵攻は20年以上にわたったが、早雲は小田原に居を移すことなく、いつも韮山城から出馬したという。

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