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【今こそ知りたい幕末明治】(60)本間雄治氏 百年の時空を超えた発見

明治39年に完成した古賀銀行本店。同41年頃の撮影とみられる
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 明治期、全国各地に大きな力を持つ企業グループ、すなわち財閥が誕生した。明治、大正、昭和の経済史は、こうした地方財閥の興亡史でもある。かつて佐賀に存在した「古賀財閥」について、貴重な2葉の写真が見つかった。

 江戸時代末期、古賀善平は佐賀城下蓮池町で呉服商を営んでいた。藩の御用商人である。その嫡男、初代善兵衛は銀行業に古賀家の命運をかけた、明治18(1985)年1月のことである。

 善兵衛は父、善平を初代頭取に据え、銀行業に力を注いだ。

 事業は時流に乗った。若津支店、長崎支店、牛津支店、柳河(柳川)支店、神埼支店、白山支店と店舗網を拡大した。

 行名は「第七十二国立銀行」「株式会社佐賀銀行」と変遷し、最後は「株式会社古賀銀行」と称した。

 銀行業に目を付けた善兵衛は、明治40(1907)年に亡くなる。家督を継承したのが2代目の善兵衛であった。ちょうどこの頃、佐賀市にある古賀銀行の本社屋が、建て替えられた。今回見つかったのは、本社屋の写真である。

 創業時は和風の店舗であった。明治39年、洋風の新社屋が完成した。

 1枚目の写真は、新社屋である。電線があることから、明治41年頃とみられる。

 2枚目は、大正6年4月に撮影された増築工事の様子である。この頃、古賀財閥は最盛期を迎えた。深川、伊丹と並んで佐賀財閥の「御三家」と称された。古賀銀行も「九州の五大銀行」とまで呼ばれた。

 明治の商人から、近代銀行実業家へ。その変化を目で追えるのが本店社屋の変遷である。

 新社屋の設計管理は、建築技師の舟木右馬之助(1989~1964)であり、工事中の写真は、舟木家から見つかった。

 舟木右馬之助は佐賀工業学校を卒業し、明治41年に佐賀県庁の営繕課に勤める。数年後退職し、佐賀市内で舟木工務所を設立した。

 深川造船所内の鋳造工場、古賀銀行柳河支店、同神埼支店など、市内の多くの建築に関わった。昭和まで佐賀県建築業界の重鎮であった。ちなみに、大正期に設計した自宅は子孫が守り「第14回佐賀市景観賞」に選ばれ、現在も残る。

 だが、古賀財閥は残らなかった。

 古賀家の主力事業は、銀行と炭砿(鉱)だった。2代目善兵衛が古賀銀行の頭取だった頃、炭砿は義弟である古賀春一に任された。

 春一のことは、古賀家の歴史の中で多くは語られていないが、大正2(1913)年に大財閥三井家と共同事業「松島炭鉱」を長崎県に創設した。

 後に東進し、常磐地方「大日本炭鉱」を大正6年開設する。佐賀出身だが「長崎出身の気鋭の実業家」と称された。

 しかし、第一次世界大戦後の恐慌、関東大震災の影響と、経済は混乱をきたした。松島炭鉱や大日本炭鉱が業績不振に陥る。本家の古賀銀行も大正15(1926)年5月に突然休業し、取り付け騒ぎが勃発した。

 経営改善は遅々として進まず、古賀銀行は昭和8年、解散に追い込まれた。佐賀の近代経済史における大事件となった。

 古賀銀行本店は、平成になって佐賀市所有となり、往時の外観内装へ復元された。今は、市歴史民俗館のメイン施設として、観光客でにぎわっている。

                   ◇

【プロフィル】本間雄治

 福岡、佐賀両県の明治大正の実業家の歴史などを研究する。昭和24年生まれ。佐賀大学卒、民間企業を経て平成17年からNPO法人「大川未来塾」(福岡県大川市)で、筑後川水系の活動に従事、18年にNPO法人「みなくるSAGA」(佐賀市)を設立。佐賀市在住。

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