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【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】新井城攻め(三浦市) 三浦氏、徹底抗戦の末に滅亡

3年間にわたる戦いの末、戦死者の血汐で染まり油を流したようになったという。右手丘陵が新井城(提供写真)
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 伊勢宗瑞(北条早雲)は明応2(1493)年、伊豆に乱入し、堀越公方の足利茶々丸を攻めた。背後には今川氏だけでなく、関東管領一門の扇谷上杉定正との合力があったことから実行できた。この年の9月には扇谷上杉氏と対立している、管領の山内上杉顕定攻めを支援して相模・武蔵へ出陣し戦っている。

 翌3年8月、今川氏親からの要請もあり、遠江三郡へ乱入し、9月には扇谷上杉氏の求めで関東へ出陣。同4年(同5年という説もある)には大森氏の小田原城を奪取し、伊豆乱入とともに関東侵攻への野望も視野にあった。

 文亀・永正期(1501~21年)に入っても両上杉氏はお互いに戦いを続け、今川氏親も援軍として出陣した。永正7(1510)年、早雲が扇谷上杉氏の家臣、上田政盛を寝返らせたことが契機となり、危機感を感じた両上杉は和睦し早雲への攻勢を強めてきた。

 早雲は両上杉との直接対決を避け、相模国最大勢力の三浦義(よし)同(あつ)(道寸)の討伐に狙いを定めた。まず、拠点であった岡崎城(神奈川県平塚市)を急襲し、支えきれなかった道寸は三浦半島の新井城に退き、徹底抗戦に出た。早雲は三浦半島の喉元にあたる鎌倉に玉縄城を築き、永正10年から3年間にわたり攻め立て、道寸・義意父子は自刃し、三浦氏は滅亡した。こうして早雲は相模一国を平定するまで足掛け20年余の歳月を要したという。

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