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【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】早雲の韮山築城(伊豆の国市韮山)

韮山城東側の城池背後の最高所が「天ヶ岳」。曲輪・土塁・障子堀が残存する
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 ■古式な縄張り、今に伝える

 明応2(1493)年からの伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆乱入は、室町幕府の管領・細川政元のクーデターと連動していたとされる。クーデターとは「明応の政変」をいう。10代将軍の義材を廃し、堀越公方・足利政知の子である義澄(義高)を11代将軍に擁立したものである。

 しかし、政知死後の内乱で、異母兄の茶々丸は後継者の潤童子(義材の実弟)とその母を殺害して堀越公方として居座ったことから、義澄のために潤童子の仇討ちをしたものとする考えもある。茶々丸は伊豆守護である山内上杉顕定の支援を受け、戦いは長期化した。

 伊豆での最大勢力だった狩野城(伊豆市)の狩野道一、深根城(下田市)の関戸義信らが制圧された明応7年8月、茶々丸は切腹したと『王代記』にあり、足かけ6年に及んだ伊豆乱入も終止符を打ったと思われた。そこに、房総半島から紀伊半島までの沿岸に大津波が押し寄せ、甚大な被害をもたらした明応大地震が発生した。早雲はいち早く復興に努め、伊豆の民心を掌握していったのであろう。

 さて、早雲による韮山城の築城はこの大地震前後とみられ、『北条五代記』に「堀越御所の臣、外山豊前守という者、韮山城に置く」という記述があるが、その城について真偽をただす史料はなく、まったく不明である。現在の城跡は天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めに際して大改造した遺構で、早雲期の古い遺構はもう見られないと思っていた。よく見ると、本城で最高所の本城曲輪と二の曲輪周辺は連郭式で小規模な曲輪配置で、障子堀・虎口も分からず、古式な縄張りを今に伝えている。(静岡古城研究会会長 水野茂)

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