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【今こそ知りたい幕末明治】奇兵隊、紆余曲折の軍服転換

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 文久3(1863)年6月、下関で「奇兵隊」が結成された。そのいで立ちといえば、洋式の軍服をイメージされる方が多いだろう。

 しかし、結成当初から、西洋にならった軍服で戦場に身を置いたわけではない。結成から1年ほどは、特に基準もなく、賓客出迎えの際などに、筒袖の胴着(腰までの着衣)と、小袴の着用が命じられる程度であった。

 萩藩が規則を定めたのは、元治元(1864)年6月のこと。基本スタイルは、胴着に袴(はかま)とした。軍服に用いる生地や色は、個々の自由ではなく、身分ごとに細かく定めた。

 士分の場合、生地は絹もしくは木綿。胴着は羽二重(はぶたえ)以下、袴は小袴で緞子(どんす)以下とし、木綿の小袴については、しま柄の着用を許した。総じて紅色や紫色の着用は禁じた。

 羽織については、陣羽織、雨羽織の生地は規制外とした。騎乗の際などに着用する割羽織には、できるだけ紋付を着用することを勧めた。

 陪臣(藩士の家来)は、胴着・小袴で、ともに木綿に限った。ただし、胴着の裏に日野紬(つむぎ)以下の絹を用いることは許した。

 お抱えの大工や細工職人、足軽出身者は、木綿に限定した。襟や袖など部分的であっても、絹の使用は固く禁じた。胴着は無地、袴は立付袴(短いはかまに脚半を縫い付けたもの)で、色は紺とした。割羽織の着用は許したが、無紋のものであることを条件とした。

 農町民出身者は、木綿で紺無地とし、割羽織の着用を禁じた。無論、絹は厳禁だった。

 このほか、ひもの生地や色、刀の鞘(さや)袋などに至るまで細かく規定し、士分とそれ以外の区別を明確にするよう指示した。

 慶応元(1865)年5月、藩は規則を追加し、輸入毛織物の使用を許した。だが、身分により、使用可能な生地は異なった。羅紗(らしゃ)(地の厚く密な毛織物)は士分に限り、一般は、荒い粗末な毛織物である呉絽(ごろ)服(呉絽服練)とした。

 なお、この年の10月ごろ、萩藩の軍需品調達窓口を担う村田蔵六(大村益次郎)が、「黒あせごろふく」を求めたものの、品薄のため、どこの店にも在庫がなかったようだ(慶応元年10月19日付文作書状)。せっかく解禁となった呉絽服を、手にできない者もいたことだろう。

 この改定では、韮山笠(にらやまがさ)の装着も認めた。韮山笠とは、編笠に似た小型・扁平(へんぺい)の笠で、こよりで作り、漆を塗ったものだ。色は定めがあり、外側が黒塗りで、内側は朱塗りとすることを基本とした。士分に限り、金色で紋を入れることを許した。

 和服から洋服への転換は、慶応3(1867)年9月のこと。藩は諸隊士の軍服を、全て洋服仕立てとするよう指示した。といっても、羅紗の使用は士分に限り、身分ごとの生地規制は、改めなかった。

 画期は、慶応4(1868)年6月。『奇兵隊日記』の6月10日の記事に、兵士全員の軍服を、羅紗でこしらえたいとある。結成から5年。ようやく、皆同じ生地の軍服で、戦場に立つ日が到来するのであった。

                   ◇

【プロフィル】古城春樹

 こじょう・はるき 昭和43年、山口県下関市生まれ。島根大法文学部卒。民間企業などを経て、平成11年から市立長府博物館に勤務。22年、同館と市立東行記念館の館長。27年から市立歴史博物館館長補佐を務める。「三吉慎蔵と坂本龍馬」「長州と薩摩」などの展覧会を企画した。専門は幕末史。

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