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【被災地を歩く】飯舘 20年かけ桜3000本植樹 広がる人の輪「生きがい」に

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 福島県飯舘村伊丹沢。杉や松の木に囲まれた山道を走った先に、笹ノ沢地区の道沿いが桜の淡いピンク色に染まっていた。約300メートルにわたって続く並木は元養蚕農家の会田征男(あいた・まさお)さん(73)が約20年の年月をかけて植えたものだ。道路脇の広場と合わせてヨシノザクラやオオヤマザクラなど約3千本が立つ。

 ◆2千本達成後に…

 征男さんが桜を植え始めたのは平成8年のこと。「飯舘には人に見せられるものがない。これからでも遅くない。桜を植えれば人が来るだろう」そんな思いがきっかけだった。

 桜の植樹は春と秋にしかできない。25年間続けた養蚕農家から野菜農家に転身したばかりだった。午前5時から桜を植えた。桜を植えると、遅くは午後10時ごろまでキュウリの苗作りの作業をする日々。「草刈りや手入れなど大変だった。なんでこんなことをやっているのだろうと思った」。苦労は生半可なものではなかった。

 目標があったわけではなかった。しかし、数が増えるにつれて、1千本という目標が見えてきた。目に浮かんだ光景は桜の名所として知られる青森県弘前公園。「あそこの桜が2600本。あれに勝ちたかった」。ひたすら植え続けた。

 平成12年に1千本を達成し、次の目標は2千本とすぐ決めた。順調に進み、21年に2千本を達成した後に起きたのが、23年の東日本大震災と東京電力福島第1原発事故だった。

 震災が発生したときには、農協理事として南相馬市の鹿島にいた。「何がなんだか分からなかった」。しかし、時間がたつにつれ、震災と原発事故の脅威がせまってきた。原発事故に伴う集団避難が決まると、畜産農家の牛の売買をはじめとした対応に忙殺された。「自分だけ逃げるわけにはいかない」と没頭した震災対応に区切りをつけたのは同年9月のこと。結局この年は、長く続けていた桜の植樹に手を付けることはできなかった。

 ◆震災が変えた意味

 妻のツタ枝さん(71)と相馬市の仮設住宅に避難したが、それでも桜の植樹をやめたくなかった。そして、震災によって桜を植える意味も変わった。

 「村に人がいなくなって桜の大切さが分かった。桜があればみんなが来て、楽しくなる」

 そんな征男さんをそばで見ていた長女の石川美知代さん(47)は「震災によって落ち込んでいた父が、桜でいきいきするようになった」と感じた。「震災の傷を慰めるのは大変。桜を植えるのは慰めるためでもあった」と征男さんは振り返る。

 25年から、ボランティアが来るようにもなった。関東の教職員が中心になって、木の植え付けや手入れなどをしてくれた。これからは一緒に米作りをしたり、ダリアの花畑を作ったりする予定だ。

 花咲く季節になると、花見会を開く。今年の花見会には約200人が参加、神奈川や静岡、岐阜から訪ねる人もいた。「毎年増えてうれしい」と話すように、桜が人の輪を広げている。

 ツタ枝さんは「桜は老後の楽しみ。私たちの生きがい」と目を細める。征男さんの努力を家族も応援してきた。美知代さんは「できることはなんでもしてあげたい」と、花咲く季節に着るジャンパーのデザインをした。

 今年の桜。咲くのも散るのも早かった。

 「花が残っているのは、あと2日じゃないか」と苦笑いしながら征男さんが話したのは10年後の夢だ。

 「10年後には桜が2・5メートルずつ伸びて道は桜のアーチになる。そのときまで生きているかな」

 並木には特に多くの肥料をやる。見上げてみると、若々しく青い枝が伸びていた。(内田優作)

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