産経ニュース

【今こそ知りたい幕末明治】思想家・西郷を育んだ2人

地方 地方

記事詳細

更新

【今こそ知りたい幕末明治】
思想家・西郷を育んだ2人

鹿児島市の南洲墓地にある西郷隆盛の墓 鹿児島市の南洲墓地にある西郷隆盛の墓

 西郷隆盛は名君、島津斉彬に抜擢(ばってき)され、将軍継嗣問題で中央政界に名をはせる政治家となった。その西郷が「敬天愛人」の思想家として脱皮したのは、1年半の沖永良部島での獄中生活の影響が大きい。

 島で西郷が2人の人物に出会ったことは僥倖(ぎょうこう)であった。1人は島役人の土持政照だ。政照とは義兄弟の契りを結ぶほどの仲となった。これには政照の妻、マツが、大久保利通の異母妹という縁もあった。マツは、利通の父・利世が沖永良部代官付役で赴任したときの子である。

 政照は野ざらしの牢で心身とも衰弱していた西郷のために座敷牢を設けた。政照の母、ツルも親身になって西郷の世話をしている。

 政照は、西郷に教えを請うた。西郷は、役人としてのあり方を記した「間切横目役大躰(まぎりよこめやくだいたい)」や「与人(よひと)役大躰」を著し、島津斉彬から教わった社倉の法を伝授した。社倉とは、飢饉(ききん)に備えて米を備蓄する法で、政照は明治3年にこの法を実施している。西郷が再び召還されたとき、政照に贈った漢詩は万感胸に迫るものがある。

 いま一人は、川口雪篷(せっぽう)。生涯の学友となった書家で文人である。雪篷は自分が流罪となった理由を島津久光の蔵書を質に入れ、酒を飲んだからだと語っている。これは、西郷が久光の逆鱗に触れ、流罪となったことを知り、西郷に話を合わせたのだろう。というのも、雪篷には真の理由を打ち明けられない事情があったのではないかと考える。

 川口家は江戸で5代続いた定府(じょうふ)(江戸在住勤務)の家で、家格は西郷より上の小番であった。ところが天保年間、琉球使節の江戸上りの際、何か失態を演じてしまったようで、雪篷にまで累が及んでいるところを見ると、幕府との関係に絡(から)むことに関しての罪だったのかもしれない。雪篷は士籍まで剥奪されていた。雪篷が士籍を回復したのは戊辰戦争勝利の大赦時である。

 江戸生まれの雪篷は、西郷との交流を求め、毎日のように西郷の元に通った。ともに酒を飲むこともあったようだ。雪篷は酒を飲んではすぐに寝てしまったり、迂闊(うかつ)にも道に迷って西郷の元を訪れたりすることがあった。西郷は「睡眠先生」「迂闊先生」と呼んでいた。

 また、西郷は数百冊の本を島に持ち込んでいたが、なかでも細井平洲の『嚶鳴館遺草』は西郷の愛読書であり、全6巻を川口雪篷と共同で筆写している。平洲は米沢藩の名君・上杉鷹山の師匠である。平洲にあやかり、西郷の「南洲」という号も生まれたという。西郷は、雪篷との交流を通して雪篷の書風をわが物にしようとした。西郷が生涯で作った漢詩は約200あるが、沖永良部島でもいくつかの漢詩を作っている。

 西郷と雪篷は、困ったときは助け合う約束をしていた。雪篷の流罪は10年以上に及んでいたが、慶応元(1865)年までには召還され、鹿児島の上之園の西郷家の食客として居候している。

 雪篷が西郷家の家族同様であったことは、西郷が上方から雪篷に宛てた4通の手紙から分かる。そのうち、鳥羽・伏見の大勝利の後の手紙には、もう鹿児島で隠居したいと書いてあり、内容は妻のイトに伝えたかったのだろう。

 明治2年7月、西郷家は武村の新居に移った。戊辰戦争で弟の吉二郎が戦死し、男手を失った未亡人や遺児の面倒をみたのは雪篷であった。西南戦争で西郷が亡くなった後も、西郷家の面倒を見続けた。

 このように、雪篷の功績の第1は、西郷家の男が国事に専念できるように留守宅を守ったこと、第2に多くの書と漢詩を残したことである。西南戦争後、各地の招魂碑に揮毫(きごう)した。南洲墓地の西郷隆盛の墓も雪篷渾(こん)身(しん)の書である。

                   ◇

【プロフィル】原口泉氏

 はらぐち・いずみ 昭和22年鹿児島市生まれ。東大大学院博士課程単位取得退学後、鹿児島大法文学部人文学科教員。平成10~23年、教授を務めた。23年に志學館大人間関係学部教授に就任、翌年から鹿児島県立図書館長も務める。専門は薩摩藩の歴史。「篤姫」「あさが来た」「西郷(せご)どん」など歴史ドラマの時代考証も手掛ける。