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【語り部の言の葉】岩手・宮古 小幡実さん(62) 理想は「防潮堤のないまち」

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 岩手県田老町(現宮古市田老地区)の防潮堤に立っています。第1、第2、第3の3つの防潮堤がX型に張り巡らされています。高さ10メートル、全長2・4キロに及び、「万里の長城」の異名があります。東日本大震災(平成23年)で津波が乗り越え、全長の5分の1が破壊されました。

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 田老町は明治三陸津波(明治29年)、昭和三陸津波(昭和8年)、今回の震災と100年余りの間に3回の大津波に遭い、悲劇を繰り返しました。世界的にも類を見ない津波常襲地です。

 防潮堤は昭和三陸津波の翌年に建設が始まり、44年かけて完成しました。高台移転の選択もありましたが、住民を集団移住させるまとまった土地の高台がない上、住まいが海から離れては漁師が不便だと、当時の首長が防潮堤で守る防災方針を打ち出しました。

 震災で津波は3波襲って来ました。揺れの37分後に高さ3メートルの第1波が押し寄せます。その5分後、海面が10メートルせり上がり、大きな水の壁となって第2波が襲来。防潮堤にぶつかって高さ16メートルに膨れ上がり、堤を乗り越えました。第2波を追うように第3波が襲い、まちをのみ込みました。

 平地の9割以上が水没。まちが壊滅するまで4分しかかかりませんでした。

 犠牲者は181人。地区人口の4%でした。多くの住民は比較的高い所にある学校、役場に避難しました。さらに「てんでんこ」で裏山に2次避難し、難を逃れました。

 「てんでんこ」は「津波が来たら周りの人に構わず、てんでんばらばらに逃げなさい」という意味です。津波常襲地の三陸地方に伝わる教訓です。「周りに構わず」というと冷徹な印象を抱く人がいるでしょうが、この教訓が親やきょうだいを助けようとして共倒れになった悲劇の積み重ねの上に成り立っていることを忘れてはなりません。

 破壊された防潮堤は第2防潮堤でした。第1防潮堤完成後の昭和37~40年度に建造されました。第1防潮堤は津波対策で頑丈でしたが、第2防潮堤は高潮対策で設計され、中身が土でもろかったといいます。第2防潮堤の破損部分は震災遺構として残されます。

 高台に住宅団地が見えます。行政は震災を受け、高台に宅地を造成しました。防潮堤で守る方針からの転換です。

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 田老観光ホテルに場所を移します。6階建てで3階まで水に浸かりました。犠牲者はなく、これも震災遺構の認定を受けました。

 ホテルのオーナーが6階から撮った津波の映像があります。「せっかくだから撮っておこう」と軽い気持ちで撮影したらしいですが、結果的には想像を絶する映像になりました。

 おばあちゃんの歩く姿が映っています。おじいちゃんといったん高台に避難しましたが、「寒いからジャンパー取ってきて」と頼まれ、家に戻りました。

 そこに第2波が襲います。防潮堤に視界を遮られ、津波の襲来に気づいていません。オーナーが上から「津波が来てるよー、早く逃げてー」と呼び掛けていますが、耳に届かず、あっと言う間にのみ込まれました。遺体は今も見つかっていません。

 消防車が走行し、住民に避難を促しています。3人の消防士が乗っていて全員亡くなりました。

 揺れがあってから津波が来るまでの間、不気味なぐらい静かだったのを覚えています。過疎のまちで普段から静かなのですが、あの時は物音一つせず、静寂に包まれていました。

 私はホテルのそばで民宿を営んでいました。揺れが大きく、車ですぐ避難しました。避難すると変に余裕が生まれ、貴重品を取りに戻ろうとしました。しかし、虫の知らせがして踏みとどまりました。今思えばそれが幸いでした。

 犠牲者の中には家に物を取りに帰って命を落とした人が少なくありません。位牌(いはい)、通帳、印鑑と探します。段々欲が出てきてあれもこれもとなるうちに津波に襲われました。

 判断ミスだったのでしょう。結局これが落命の最大の理由です。「たいして大きな津波は来ないだろう」と高をくくったことが命取りになりました。

 万里の長城は「人間の造った物は自然の猛威の前に無力だった」というネガティブな文脈で語られます。ですが、あの防潮堤がなかったらどうなっていたかと思います。

 田老地区の犠牲者は他の被災地より少ないです。明治三陸津波、昭和三陸津波に比べても小規模でした。

 防潮堤がなかったら津波は多くの住民が避難した学校、役場にも到達したはずで、犠牲者が桁違いに増える可能性がありました。防潮堤は津波に乗り越えられ、破壊もされたけれど、津波を低減させ、速度も遅らせました。一定程度人命を守り、防災機能を果たしました。

 防潮堤は「住民に依存心が生まれ、危機意識を低下させる」「景観を損ねる」などと負の側面はありますが、それを差し引いても「人を死なせない防災」に役立ったと思います。

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 改めて防災のまちづくりを考えてみます。田老地区は震災を受け、旧防潮堤の外側に高さ14・7メートルの新しい防潮堤を造る計画です。行政は防災の基本的な考え方を防潮堤から高台移転に転換しましたが、防潮堤からの決別とまではいきませんでした。

 防潮堤の役割は否定しません。ですが、理想論で言えば防潮堤のないまちに越したことはありません。やはり高さ14・7メートルの壁は息が詰まります。住民からも反対の声は上がりましたが、行政に押し切られました。将来の課題として議論の余地を残すでしょう。

 震災で得た教訓は「自分の身は自分で守る」ことです。揺れから津波まで40分近くの時間的余裕がありました。逃げようと思えば逃げられたのです。天災で大きな犠牲が出ると行政の責任を問う風潮がありますが、住民の危機意識の薄さが惨事につながる最大の原因であることをわれわれは肝に銘じるべきです。

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【プロフィル】小幡実

 おばた・みのる 岩手県田老町(現宮古市)出身。震災3年後の平成26年、宮古観光文化交流協会の「学ぶ防災ガイド」として語り部活動を始める。

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