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【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】遠江三郡乱入(掛川市) 茶々丸擁護の原氏討伐

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【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】
遠江三郡乱入(掛川市) 茶々丸擁護の原氏討伐

高藤城跡はゴルフ場開発で消滅したが、長福寺の門前は原氏の古城跡(本郷城)と伝わる=掛川市本郷 高藤城跡はゴルフ場開発で消滅したが、長福寺の門前は原氏の古城跡(本郷城)と伝わる=掛川市本郷

 明応2(1493)年10月、伊勢宗瑞(北条早雲)の「伊豆乱入」(伊豆討ち入りとも称す)は、将軍の義材を廃して義澄を新将軍に擁立した管領・細川政元のクーデターと連動し、今川氏親と早雲らが支援した幕府内の権力抗争が背景にあった。前将軍・義材を推す堀越公方(伊豆の国市)の足利茶々丸を急襲するが、取り逃がしてしまい乱入は長期化した。

 伊豆では反対勢力もあり、これから激甚化する中、早雲は翌明応3年8月に今川軍を率いて「遠江三郡乱入」という掛川市周辺の中遠地域に攻め込んだ。標的は茶々丸を擁護する管領の遠江守護・斯波氏配下の高藤城(掛川市本郷)の原氏討伐である。

 この乱入を具に見ていた高山円通院(掛川市原田郷)の松堂高盛が記した『円通松堂禅師語録』に詳しく、「平氏早雲者、引率数千、乱入当州三郡、推落高城(高藤城)、殺戮(さつりく)官軍…」とあり、高藤城は落城して、多くの領民が討たれたとされる。

 ところが、近年の史料分析から、原氏と一門は明応6年頃までゲリラ的な抵抗を続けていたことが分かった。さらに、他の史料には「遠州の儀、故なく駿州今川方共望、…被官人不慮の取り合い」とある。

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