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【平成のクラシックはこうして生まれた】宮崎国際音楽祭(1)

宮崎県立芸術劇場のコンサートホール。ウィーンの「ムジークフェラインザール」を模した
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 ■「やるからには中途半端なことはするな」

 ■1年勘違い、大慌ての前奏曲

「日本の演奏水準は、世界にひけをとらない所まできているが、あと一歩足りない。それを埋めるには、一流の音楽家との真のコミュニケーションが必要なんです。N響を辞めて、そんな交流ができる音楽祭をつくりたい」

 平成5年9月29日、ドイツ・フランクフルトのホテルのバーで、バイオリニストの徳永二男(71)が、NHK交響楽団からの退団を申し入れた。

 向き合ったN響理事長の青木賢児(85)は、驚くしかなかった。

 徳永は日本を代表するバイオリニストで、N響のコンサートマスターだった。年齢も40代と、演奏家として脂が乗った時期だった。

 だが徳永は、大編成のオーケストラに限界を感じていた。

 「演奏家のぶつかり合いでこそ、得られるものがある。指揮者を置かず、少数の演奏家でつくり上げる室内楽こそ、日本クラシック界の発展に必要なんです」

 徳永の意志は固かった。

 青木は当初、慰留に努めた。だが、徳永の言葉を聞くうちに、別の思いが頭をもたげてきた。徳永の退団話は「運命」ではないか。

 「徳永さん、あなたの夢を宮崎で描いてみませんか」。青木は思わず、口にした。今度は徳永が驚く番だった。

 青木はこの年の4月、故郷・宮崎の県立芸術劇場の初代館長に就任していた。

 「劇場でやるプログラムを考えていたんです。劇場は日本に、世界に誇れる設備です。館長としてお願いしたい。宮崎で室内楽の音楽祭をやりましょう」

 2人の会話は、だんだん盛り上がった。

 「やるからには、世界一を呼びたい。スターンさん以外に適任はいない」

 アイザック・スターン(1920~2001)は、20世紀最高のバイオリニストと称される。徳永のあこがれであり、目標だった。小さく、緩やかに。音楽祭構想が鳴り始めた。

                   ◇

 徳永、青木の会話から10年前。昭和58年5月28日、宮崎県知事、松形祐堯(すけたか)(1918~2007)は置県100年記念式典で「総合文化公園構想」を披露した。

 宮崎市内にある宮崎大農学部の跡地に、図書館、美術館とともに劇場を整備する。総事業費400億円の一大事業だった。

 昭和30、40年代、新婚旅行ブームが宮崎県を潤した。だが、ライバルとして沖縄や海外が浮上し、ブームは去った。交通の便の悪さから、企業誘致も進まない。「陸の孤島」。宮崎は取り残された。

 松形は54年8月に知事に就任すると、産業誘致や観光振興に加え、日本を代表する文化都市への脱皮を目指した。

 松形は背伸びした。劇場には大中小の3ホールと、10を超える練習室を整備することにした。特にクラシック専用の大ホールは「ムジークフェラインザール」を模した。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地であり、毎年1月1日に同楽団によるニューイヤーコンサートが開かれる。縦長の箱状の形と、音響性能の良さが有名だ。

 松形はクラシックに造詣が深い訳ではなかった。それでも「一流を知らなければ、いつまでたっても二流のままだ」と、国内最高のホールを目指した。

 施設ができても、中身を伴わなければ、ハコモノは「未完成」だ。松形はNHK会長の川口幹夫(1926~2014)に、館長を紹介するよう依頼した。川口は九州に縁が深く、松形と旧知だった。

 川口が宮崎に送り込んだのが、宮崎出身でN響理事長だった青木だった。青木にとって劇場が建つのは、思い出の地だった。父が宮大農学部の教授で、キャンパスは幼い頃の遊び場だった。

 青木はN響から徳永と音楽祭構想を宮崎に連れてきた。

                   ◇

 リレハンメル五輪で日本勢が活躍していた平成6年2月23日。徳永は、宮崎市内の老舗料亭「岡田」で、音楽祭構想を熱っぽく語っていた。相手は宮崎県の生活文化課長の上原道子(74)だった。

 上原は徳永の話に魅了された。一方、事務方として懸念も抱いた。わくわくする企画だが、どれぐらいの予算が必要になるのか-。

 上原は期待も懸念も、松形に報告した。

 「分かった。やるからには中途半端なことはするな」

 松形の答えは簡潔だった。

 交渉の末、スターンの出演も決まった。9年3月の来日で合意した。…はずだった。

 6年冬、思わぬ事態が発覚した。

 「大変だ! スターン氏の来日予定が、9年3月じゃなくて、8年3月に入っていたみたいだ」

 劇場館長の青木が、慌てて上原に連絡をした。

 「どうするの。7年度の予算、もう組み上がってるわよ」。上原も慌てた。

 自治体は年度で動く。8年3月にビッグイベントを開くには、7年度予算に経費を計上しなければならない。

 予算案は各担当課が積み上げた要求を、財政課が査定する。その後、知事裁定などを経て、正式に固まる。段階的な議会への根回しも含め、前年12月ごろには、すべての作業を終える。

 選択肢は二つ。7年度予算案に費用をねじ込んで開催を前倒しするか、スターン氏のスケジュールを1年後に組み替えてもらうか。

 「スターンほどの売れっ子は、機会を逃したら二度と来ない。何とか残り1年半でやるしかない」

 青木の言葉に、上原は前者を選ぶほかなかった。松形に報告後、財政課との調整に入った。

 上原は、音楽祭の開催経費を約1億3千万円と算出した。宮崎県の予算規模は約5800億円だった。このうち、ソフト事業に使えるのは、約4分の1の1200億円程度だ。予算案の段階だが、使い道は1円単位まで固まっている。

 「やるっきゃない」。上原は腹をくくって、財政課に乗り込んだ。規模削減や、少なくとも見返りに、関係部署の予算圧縮を求められると覚悟していた。

 「上原さん、もっと出さなくて良いの?」

 拍子抜けした。おそらく、松形から財政課へ、一言あったのだろう。

 いつもそうだった。

 「ヨサコイじゃから分からん。よろしく頼む」。松形はそう言って、方針を決めれば部下に任せる。

 宮崎県えびの市出身の松形は、戦前の九州帝国大学農学部を卒業し、農林省に入った。「ヨサコイ」は高知営林局を振り出しにした松形の口癖だった。

 それでいてトラブルがあれば、きっちり支援した。仕えやすい上司だった。

 予算に計上され、8年3月の開催が決まった。

 上原は7年8月、劇場関係者や地元の観光業者らとヨーロッパを視察した。

 スイス・ルツェルンとオーストリア・ザルツブルクを巡った。本場の音楽祭に感激した。半面、これだけのイベントを作り上げる膨大な仕事量を、意識した。

 「本当に、あと半年でやるのか? むちゃだよ」。欧州の音楽関係者から、こんな忠告も受けた。

 できるか、できないかではない。やるしかなかった。上原らは、帰国した。

 県内各自治体との交渉、宿泊や移動の手配、マスコミへのPR、楽器や譜面の手配。県庁職員と劇場スタッフは、前例のない仕事に次々と取り組んだ。

 出演者や演目が決まれば、料金と、A席やS席などの席種を決める。紙の座席表に書き込み、システムに一つ一つ入力する。すべてが手作業だった。

 出演者と楽器の宮崎までのルートを確保する仕事もあった。楽器はデリケートで、湿度や温度変化に弱い。航空機の貨物室ではなく、客室に持ち込み、専用の座席を確保する必要がある。

 演奏家のスケジュールが替わるたびに、県担当者は日本航空や全日空の宮崎支店に出向いた。乗り継ぎ便などの調整だった。

 上原らにとって半年は、怒濤(どとう)のように過ぎた。

 8年3月9日。スターンが宮崎空港に降り立った。空港ロビーは、出迎えの人間でごった返した。「こんな歓迎を受けることはめったにない」。スターンはあいさつした。

 11日、第1回宮崎国際室内音楽祭の幕が上がった。 (敬称略)

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