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【大和と雪風】(上)両艦に乗った元海軍兵・豊田義雄氏の証言

戦艦「大和」から強運艦「雪風」へ。数奇な運命をたどった豊田義雄氏=山口県下関市(大森貴弘撮影)
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 ■巨大戦艦「この船なら死ぬことはない」 山本長官が乗艦、誇らしく

 昭和20年4月7日、戦艦「大和」は、鹿児島県・坊ノ岬沖で米軍に撃沈された。それから、73年を迎えた。山口県下関市に住む豊田義雄氏(98)は海軍に入り、大和に配属された。その後、駆逐艦「雪風」に転属となり、大和を護衛し沖縄に向かい、その最期を目にした。雪風は主要な海戦を戦い抜き「強運艦」と呼ばれた。数奇な運命をたどった豊田氏の証言から、さきの大戦を振り返る。 

(山口支局 大森貴弘)

 ◆完成直前に配属

 昭和12年、日本は極秘のうちに戦艦大和を起工した。前年、戦艦の新造を制限したワシントン軍縮条約が失効していた。同条約では、戦艦保有比率を米英の5に対し、日本を3とした。数で劣る中、質で米英を上回ろうと、日本海軍はより大きな砲を搭載した戦艦を作ろうとした。

 13年6月、豊田氏は広島県の呉海兵団に入団した。

 豊田氏は、山口県萩市・大島の出身だ。満州事変に端を発し、大陸で戦火が拡大している頃に小学校高学年を迎え、軍人を目指すようになった。

 「島育ちですから、毎日泳いで過ごした。泳ぎには自信があったので、海軍しかないな、と思った」

 18歳で海軍に入り、6カ月の教育期間で海兵としての基礎を身につけた。その後、駆逐艦などを経て、16年9月、完成前の大和に配属された。

 大和は豊田氏が学んだのと同じ呉の地で建造された。完成は日米開戦後の16年12月16日だった。

 建造費は現在の価値で3兆円に上った。排水量6万4千トン、46センチ3連装砲3基を備える。性能を最大限に発揮すれば、米戦艦を圧倒できると日本側は信じていた。

 機密保持を目的に、建造中のドックを覆うように壁が設けられ、工事関係者は指紋を採られた。ただ、豊田氏は配属前から巨大戦艦の存在は知っていたという。

 大和の艦内は、それまで乗った艦船と比べ格段の差があった。

 「私のような下っ端の水兵までベッドで寝られたし、大きな船じゃなぁと思った。装備も近代的だった。この船に乗っていれば、死ぬことはないだろうな、と一番に感じました」

 配置は、注排水指揮所だった。

 大和の船体は、約1500の防水区画に分けられていた。魚雷などの攻撃で船腹を破られた場合、反対の区画に注水して、水平を保つ。その注排水を担った。

 「傾きが5度を超えると、主砲の旋回がきかないんですよ。すぐに注水して、水平を維持しないといけない」

 戦闘能力を維持する要ともいえる部署だった。

 ◆「決戦兵器」と温存

 大和は昭和17年2月、連合艦隊旗艦となった。山本五十六司令長官はじめ、参謀らが乗艦した。

 豊田氏は、艦内を巡視していた山本五十六を見かけたこともある。

 「あの人は日露戦争で指をなくしている。それを隠すように、後ろ手に組んで歩いていました。敬礼すると、答礼もしてくれて。長官と同じ船に乗っているのは、本当に誇らしかった」

 「長官たちのためでしょうね、お昼時になると、軍楽隊の演奏が聞こえてきました」と振り返った。

 米国との戦争の主力は、もっぱら空母と飛行機だった。

 戦艦は「決戦兵器」である-。日露戦争における日本海海戦以来、海軍にこんな思想が染みついた。海軍は「決戦」に備えて大和を温存しようと、前線投入をためらい続けた。後方待機が続き、海軍の中でも“大和ホテル”と揶揄された。

 後世、「大和は時代遅れで使い道がなかった」と批判されるが、むしろ使いどころを逃したといえる。

 ◆初陣ミッドウェー

 大和初陣は、17年6月のミッドウェー海戦だった。

 「注排水指揮所というのは、船がやられなければ平穏なところなんです。なかなか実戦に出ませんから、整備に明け暮れていました」。乗組員にとっても待ちに待った実戦だった。

 だが、日本はミッドウェーで空母4隻を失った。大和は、機動部隊のはるか後ろにおり、戦局に寄与できずに終わった。

 「ミッドウェーでも最初は、負けるという意識なんて全くなかった。でも、空母がやられ、ミッドウェー島攻略に失敗して引き返すというのは、船内でそれとなく分かりました。情けなくて、涙も出ませんでした」

 それ以降、豊田氏が乗っている間、大和が実戦に臨むことはなかった。

 豊田氏は昭和18年4月、太平洋のトラック島に寄港中に駆逐艦「雪風」への異動を命じられた。転属命令が出たその日に、雪風が入港し、そのまま乗り移るという慌ただしさだった。

 排水量2千トン。大和の30分の1に過ぎなかった。

 「駆逐艦というのは、はっきり言って使い捨て、消耗品ですよ。大和より先にやられるなと思いました」

 これが、運命の分かれ道になった。

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