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【今こそ知りたい幕末明治】佐賀が誇る「逓信四天王」の2人

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 江戸時代末期、佐賀藩主の鍋島直正は、西洋近代化の技術を取り入れようと嘉永5(1852)年、領内の多布施に精煉方を開設した。近代技術の研究機関であり、藩内外を問わず優秀な研究家、技術者を集めたのであった。

 その中に、久留米出身の田中近江(久重)、京都の理化学者の中村奇輔、但馬出身の蘭学者、石黒寛次らがいた。藩からは佐野栄左衛門(常民)が精煉方主任の役を仰せ付かった。

 精煉方では、蒸気機関、反射炉、大砲鋳造、電信などを研究した。この内、電信機は安政4(1857)年6月頃までに製造に成功した。

 ちなみに「からくり儀右衛門」とも呼ばれた田中近江の事業は、後の東京芝浦製作所(現東芝)へと継承される。

 鍋島直正は開発した電信機を、薩摩藩主の島津斉彬に贈呈することを考えた。近侍長の千住大之進を正使に、佐野栄左衛門、中村奇輔を隋員として、一行を遣わした。直正と斉彬は母親が姉妹、つまり従兄弟であったのだ。

 明治に入ると、電信と郵便が並行して発達した。

 維新から間もない明治4年12月、佐賀城下の長崎街道、東拠点構口と西拠点八戸の中間地点である白山町土橋脇に、佐賀郵便取扱所(郵便局)が開設された。6年には取扱所に電信局が併設された。

 土橋は当時、佐賀城外堀(十間堀川)に架かるランドマークであった。土橋を渡れば江戸期からの商人の町、唐人町と寺町に入るのである。

 筆者は平成26年にこの十間堀川の調査をし、付近に小さいながらも川港の痕跡を見つけ、発表した。この地区こそが、城下町・佐賀の北部における物流拠点と位置付けた。

 この点からも、郵便取扱所を設ける上で、まだ鉄道の敷設されていない当時としては適地と考えられる。

 もう一つ、立地の理由があった。それは情報流通の拠点ということだ。

 江戸期、元文5(1740)年の佐賀藩地図「佐賀城廻之絵図」をみると、八幡神社付近、白山町西端に「使者屋」と表記がある。使者屋とは一般旅人ではなく、公儀(幕府)使者並びに飛脚が宿泊する指定宿である。藩外からの重要情報は、この地を入り口として佐賀城内に入ったのだった。

 郵便取扱所は当初、使者屋の隣接地に、数年後には使者屋跡そのものに移転されたのだった。今も同じ場所に佐賀白山郵便局がある。

 ここで重要なことを確認する。

 明治政府の文明開化施策である近代通信網についてである。明治6年、東京から西へ伸びる通信網の幹線が、福岡から佐賀に入り、長崎に至った。

 一方、久留米から南の幹線は当時熊本へは接続していなかった。郵便は道路をとって届くが、電信線は繋がっていなかったのである。

 この東京・長崎間の電信線敷設に貢献したのが旧佐賀藩士、石丸安世であった。石丸は明治3年、初代電信頭となり、電信インフラの整備に尽力した。

 電線架設に必要な碍子(がいし)の国産化を、有田深川栄左衛門に開発を委ねた。

 こうした功績から「電信の石丸安世」と呼ばれるようになった。石丸だけではない。旧佐賀藩士では、逓信省初代電信局長を務めた「電話の石井忠亮」もいる。

 石丸と石井は、「郵便の前島密」「鉄道の井上勝」とともに後に「逓信四天王」と称された。幕末から明治への電信事業の系譜をみると、佐賀藩はまさに、近代情報産業の草分けであった。

                   ◇

【プロフィル】本間雄治氏

 福岡、佐賀両県の明治大正の実業家の歴史などを研究する。昭和24年生まれ。佐賀大学卒、民間企業を経て平成17年からNPO法人「大川未来塾」(福岡県大川市)で、筑後川水系の活動に従事、18年にNPO法人「みなくるSAGA」(佐賀市)を設立。佐賀市在住。

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