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【自慢させろ!わが高校】市立鹿児島玉龍高校(上) 良き伝統と斬新な気風 教育界に大伽藍打ち立てる

玉龍山福昌寺跡には島津家代々の墓所がある
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 鹿児島市中心部から北へ車で15分ほど行くと、薩摩藩主、島津家歴代の墓がある。玉龍山福昌寺跡だ。南九州屈指の大寺だったが、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた明治2年に廃された。広大だった敷地から本堂など大伽藍(がらん)は消え、島津家の墓だけを残す。

 その地に今、玉龍の名を冠した高校が立つ。

 「墓所には歴代の島津藩主と家族も眠っている。在学当時は、雑草抜きなど墓所周辺の掃除も割り当てられていた。私は真面目にやらず、遊んでばかりでしたが…」。岩崎産業社長の岩崎芳太郎氏(64)=昭和47年卒=は、苦笑いした。

 自宅が高校に近かった。「進んで勉強する方ではなかったので、あえて厳しいと評判の玉龍を選んだ。変わり者だった」と笑う。5人きょうだいのうち4人は同じく玉龍へ進んだ。

 南日本リビング新聞社取締役総務部長の稲荷田治美氏(51)=昭和60年卒=にとって、隣接する福昌寺跡は、淡い青春の思い出の地だという。憧れていた応援団の男子が練習場所にしていた。

 「はかま姿がりりしく、格好良かった。放課後になると、練習をのぞきに行きました」

 社会人になり、郷土の歴史に関心が向くようになると、素晴らしい学校へ通ったと改めて思うようになったという。

 平成2年の創立50周年記念事業で新体育館が建設された際に、発掘調査が実施された。寺門に当たる場所から、大きな踏み石が出土した。石の中央部は、へこんでいた。わらじ履きの若い学僧が出入りする姿が目に浮かぶようだったという。

 ■ ■ ■ 

 昭和15年創立の鹿児島市立中学校と市立高等女学校を前身とする。戦後の25年に鹿児島県玉龍高校、32年に現在の校名に改称した。

 校章は、玉を3葉の龍舌蘭(りゅうぜつらん)で包む。玉の如(ごと)く円満な人格と、昇竜の如く躍進、向上する若さを象徴する。

 現在も進学校だが、かつての進学状況は県内でも突出していた。昭和34年には玉龍卒業生4人が、東大へ進学した。その1人が、鹿児島市の弁護士、池田●(=さんずいに亘)(わたる)氏(77)だ。

 兄2人は県立の進学校、鶴丸高校だった。ところが、兄の妻の父が当時、玉龍の校長で、熱心に「スカウト」されたという。校長は県内の中学を回り、優秀な生徒を集めていた。

 「模擬試験で県内ベスト20のうち、私のいた特別クラスから11~12人が入っていた。ずば抜けてよい時代、輝かしい時代だった」という。

 池田氏は当初、医学を志望し理科2類へ進学した。当時、3類はなかった。

 ところが、大学で体験したカエルの解剖で、血を見ただけで震え上がった。医者の道を断念した。農業経済を学び、製薬会社勤務を経て司法試験に合格した。47年に鹿児島へ戻って弁護士登録した。県弁護士会会長も務めた。

 九州大学の久保千春学長(70)=昭和41年卒=も、黄金期の玉龍に通った。中学時代は学年1、2位の成績だったが、玉龍へ入ると400人中20~30番に。「勉強すれば上がると思っていたが、なかなか上がらなかった」と悩んだという。

 それでも恩師は「君には伸びしろがある。一生懸命やれ!」と励まし続けた。

 恩師の言葉に支えられ、久保氏は地道な努力を続けた。1年生の秋には2番になり、以降は5番以内の常連になった。

 厳しい先生もいた。

 数学担当の教師はいつも竹の鞭(むち)を手にしていた。「問題を間違えれば、パチン!とやられた。数学は得意でたたかれずに済んでいたんですが、1度だけ愛のむちを受けた」。久保氏は振り返った。同期のうち3人は東大へ行った。

 久保氏は3年生の6月頃、慢性腎炎にかかった。夏休みを含め約2カ月半、自宅で療養した。「自分自身で病気を治そう」と決意し、医学部進学を決めた。

 猛勉強の末、九大と鹿児島大の医学部に合格し、九大へ進む。母の親類宅に下宿し、食事療法をしながら大学へ通った。大学2年の時に病気は完治した。

 「高校時代は集中して勉強に打ち込み、それが人生の基礎をつくった」

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 その後、進学校としては長らく低迷した。

 「国立大へ進学させるのに情熱を注いでいた教師と、日教組を中心に労働者の権利を主張する教師集団の間に対立が起きたと聞いている。社会党系の市長時代に予算をかけず、良い先生も集まらなくなったそうです」。岩崎氏はこう語った。

 低迷脱却の切り札として導入されたのが、中高一貫校への変革だった。

 平成18年、鹿児島玉龍中学を併設した。

 高校の定員は1学年240人。このうち120人を玉龍中学から受け入れ、残り120人を高校入試によって選ぶようにした。

 「中学からの中入(ちゅうにゅう)生と、高校からの高入生を切磋琢磨(せつさたくま)させている。互いに刺激し、良い流れができる。古き良き伝統と、斬新な気風を併せ持つ中高一貫の教育校になった」。同校教頭の国生勝海氏(56)は誇らしげに語った。

 実際、29年度の進学実績をみると、国立大97人▽公立大23人▽準大学(防衛大・気象大)各1人▽私立大194人だった。国生氏は「私は13年からも7年間、玉龍で勤務した。当時は九大に1人合格できれば万々歳。今の実績は隔世の感がする。中高一貫校の成果は着実に出ている」と話した。

 玉龍山福昌寺は江戸時代、薩摩随一の学問所として教育文化の中心だった。最盛期には1500人の僧侶が己の道を追究した。鹿児島玉龍高校もまた、鹿児島の教育界に大伽藍を打ち立てようとしている。 (谷田智恒)

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