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【今こそ知りたい 幕末明治】古城春樹(53) 長府藩の海軍創設、龍馬の売り込み実らず…

長府藩に航海技術者を売り込もうとした坂本龍馬(国立国会図書館ウェブサイトから)
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 幕末、海防を急務とした幕府や諸藩は、洋式の帆船や蒸気船を建造・購入するなどして、海軍を創設した。

 萩藩では、安政3(1856)年以降、自力で洋式帆船を2隻建造した。さらに、文久2(1862)年以降は、外国から蒸気船(軍艦)などを購入し、海軍を整備拡充している。

 一方、下関を領有する支藩・長府藩で、本格的に蒸気船(軍艦)の購入を意識し始めるのは、幕長戦争(第二次長州征討)直前の慶応2(1866)年4月ごろのようだ。

 長府藩の家老、三吉内蔵之助(周張)が「砲(大砲)」か「艦(軍艦)」か、いずれかを買い求めたいと、萩藩の伊藤俊輔に相談している(慶応2年4月18日付、伊藤書状木戸準一郎・井上聞多宛)。

 きっかけは、海防や攘夷ではなく、幕府との一戦だったようだ。

 長府藩が軍艦の入手に動いたのは、7月のこと。萩藩の軍艦(第二丙寅丸)を購入するため、長崎へと向かう伊藤に購入を委託した。

 しかし、外国から売却目的で長崎に回航される蒸気船は、日本側の蒸気船需要に追いつかなかった。そこで、伊藤は上海に渡り、萩藩と長府藩の汽船2隻の契約を結んだ。

 長府藩が所有することとなった船は、揚子江の渡し船として用いられていたとされる小型の英国製汽帆船、すなわち蒸気機関を備えた帆船であった。

 原名を「ハルケレ」といい、全長は19間(34・5メートル)だった。これは、同年5月に、萩藩の高杉晋作が独断で購入した丙寅丸(37メートル)と、ほぼ同じ全長である。全幅は3間半(6・3メートル)で、檣(しょう)(帆柱)は2本。大砲は30斤と20斤が各1門ずつ搭載されていた(「長府藩購入蒸気船覚 慶応2年11月」)。

 長府藩では、購入に合わせ、海軍創設に伴う人事を行った。まず、7月29日に、三吉内蔵之助に海軍事務を督(とく)させることを決めた。次いで、8月30日には、藩士の伊佐太郎、阪野信次郎らに、調練のため萩藩軍艦「庚申丸」への乗り組みを命じた。

 待望の船が、上海から届いたのは、11月6日だった。藩は「満珠」と名付けた。神話の舞台となった長府沖の島の名前にちなんだ。

 この間、長府藩に航海技術者を売り込む一人の青年がいた。坂本龍馬である。

 龍馬は、長府藩士の三吉慎蔵に、長崎に拠点を置く仲間たち、いわゆる「社中(亀山社中)」の窮状を訴え、雇用を求めた(「慶応2年7月28日付書状」)。当時、「社中」は、乗る船を失い、困窮していた。

 「社中」は、幕府の神戸海軍操練所で航海術を学んだ、技術者の集団だ。当時、最高の学校で指導を受けた者たちだといえる。経験も豊富で、彼らを活用しない手はないだろう。長府藩と姻戚関係にある伊予大洲藩は「社中」から数人を雇用している。

 ところが長府藩は、自藩内で乗組員を手配した。また、指導者として、萩藩海軍局の士官・杉留之輔、機関士・篠原謙介ら5人を雇用し、運用を開始した。

 龍馬、残念…。

                   ◇

【プロフィル】こじょう・はるき

 昭和43年、山口県下関市生まれ。島根大法文学部卒。民間企業などを経て、平成11年から市立長府博物館に勤務。22年、同館と市立東行記念館の館長。27年から市立歴史博物館館長補佐を務める。「三吉慎蔵と坂本龍馬」「長州と薩摩」などの展覧会を企画した。専門は幕末史。

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